映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』身体に心が追いつくまでの軌跡をたどる、自分へ向けた手紙のような映画

破壊的な衝動。

これまで保ってきた何かを、ぶち壊してしまいたいと思ったこと、あなたにはないだろうか。

僕にはある。

豪雨のなか傘を叩き折ったこと。コンクリートの壁を拳で殴りつけたこと。人間関係をすべて清算したこと。

それらをしたあとに待っているであろう痛みや虚しさを加味しても、その行動を止めることはできなかった。

どうして深夜は恐ろしいほどの沈黙に包まれているのか、なぜこの沈黙に耐え切れず、叫びだす人間がいないのか。

そんな疑問が、いまも消えたわけではない。

これは出来損ないの僕のしょうもないエピソードだが、この映画の主人公は違う。

社会の中で成功をおさめ、まともに生きてきた人間の身に降りかかる突然の不幸。

それが引き金となって呼び起こされる破壊的衝動。

ただ共通している点があるとすれば、足りないものを埋めるために「破壊する」ことは、どんな人間にも潜んでいる、生への渇望なのかもしれない、ということだ。

予告

あらすじ

ウォール街に勤務するエリート銀行員、ディヴィス(ジェイク・ギレンホール)は、ある日突然の交通事故で妻を失ってしまう。

しかし、葬儀の当日もディヴィスの心は何を感じることもできず、涙一滴出ない。

妻を失ってなお、規則正しい生活を送り続けるディヴィスだったが、ある出来事をきっかけにして、錆びついていた時計の針が回りはじめ、いつしか「破壊衝動」に目覚めてゆく。

それは過去に追いつき、すべてを清算するために。

映画を見たきっかけ

本当は映画館で見る予定にしていた映画だったが、ズルズルと行く日を先延ばしにしていたら、ついに公開が終わっていた。

それがようやく、旧作の棚に並んでいたのと、今ならこの作品と対峙して、期待とは裏腹な作品であったとしても、受け止められるような謎の自信があったのでレンタルするに至った。

それにジェイク・ギレンホールの演技を見て損はない。

彼が出演する作品は奇抜な役柄が多いが、この作品も御多分に漏れずである。

だが、少し違っているのは後半部でとくに、人間的な人間を演じられていること。

彼はとにかくおそろしい演技力だ。そしてその幅も広い。おそろしや。

顔立ちも瞳もなんか見入っちゃうしね。

抽象的ネタバレ考察(感想)

この作品は間を置かず、二度視聴した。

特別な映画だと形容するのも憚られるほどの作品だと直感したからだ。

主人公は妻を失う前から虚無に憑りつかれていた。

数字を上げるためだけの仕事。10を100に、100を1000に。そうやって利益を上げるためだけに、際限なく取り引きを続けていく。

仕事だけではない。高級家具に囲まれた豪邸での申し分ない暮らしと、その一方で溜まっていた漠然とした不服。

「お金持ちだからといって、心まで豊かになれるとは限らない。」

…と、ここまで聞くと「よくあるテーマ」ではあるのだけど、

その「よくあるテーマ」を、見事なまでにいままでにない形で昇華させていることへの驚きと新鮮さが、多くの人がこの『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』という作品に惹き付けられている理由なのかもしれない。

 

泣けなかったディヴィス。辛辣なクレームの手紙を書くディヴィス。その後増えていく数々の奇怪な言動。破壊行為。

そのどれもが僕の目には異常だとは思えず、痛々しいまでの彼の人間味に、おもわず目を伏せた。

そこに性的な衝動がないことも、よりいっそう作品としての魅力につながっているのかもしれない。

男という生き物はたいてい、ストレスのはけ口として酒やドラッグ、セックスを選ぶ。

しかしこの映画に登場するディヴィスは憔悴しきっていた。

喪に服しているからとか、妻に申し訳ないからとかそういった理由ではおそらくない。

彼の心を巣食う虚無は、決して衝動的な痛飲や性行為を求めることはなかった。

ストーリーのなかでは、クレーム担当の女性・カレンと深い仲になるが、そこに男女の関係はない。

少なくとも、そういった描写はなく、彼女の息子に「ママと寝たんだろ?」と聞かれてもディヴィスはNOと答えてもいる。

だが真相はわからない。セックスはありませんでした、と強調されているわけでもない。

その曖昧さが、また良い。

「男女とは決して、セックスだけで成り立つものではない」

だがそれも直接的なメッセージとして伝えられるわけではない。

あくまでこちらに、その「想像をしてもいい余地」を残してくれているだけだ。

たとえ仮に関係があろうとなかろうと、それはほとんど問題ではないのだ。

この描かれ方に、本当の意味での人間の絆を感じ取ることができる。

 

そうした人との関わりのなかで、お互いが日々を生きることへ真摯に向き合うことの大切さを思い出し、ディヴィスだけでなく、彼に関わった人々それぞれが成長していく姿が描かれている。

子供は、外界へちょっかいを出す過程で、他者や世間との距離感を掴んでいくのだという。

しかしそれは、子供に限った話なのだろうか。

いくつになっても人は外へと働きかけ、反応を見て、学び、成長することができる生き物ではないだろうか。

ディヴィスの心が身体に追いついたとき、妻エレンの死を目の当たりにすることで、自然と感情を取り戻すのであった。