香山哲『ベルリンうわの空』一日5分の社会問題を考える時間 身の丈に合った社会貢献活動は誰にだって今日からできる

2020年、4月5日(日)いかがお過ごしだろうか。

世の中ではコロナウイルスによるパンデミックにより、その話題で持ち切りだ。

私が住んでいる街、福岡でも週末(土日)の不要不急の外出自粛要請が出された。

とりあえず「19日まで」ということだがきっと延長されることだろう。

なぜなら土日の外出を控えたところで、平日5日間仕事のために外出をしてしまえば、結局コロナウイルスの伝染を本気で食い止める策とはなり得ない。(ただ感染者数の増加が緩慢になる効果はあるだろう。それになんの意味があるのかはわからないが)

もちろんこれはすべて、現ドケチ政権の招いている愚策のおかげで、(というより端から国民の税金は私物であって、「国民のもの」という認識が彼らにはそもそも備わっていないのだろう。)

県単独ではこれ以上の思い切った対策は打ち出せないのだ。

 

(まあ、この政権下で緊急事態宣言を発令されるのは、また別の点で問題だけど…。)

なんで政府は国民への現金給付をしぶるの?

税金の使うタイミングって、「いまでしょ?」なわけだが。

ドケヂ民党は、「なんでワシらの金、おまえらにやらにゃアカンねん」と言わんばかりに財布の紐をきつく絞る。提案なのだが、名前を「悪党」にしたらどうだろうか。

とまあ、きゃつらの悪逆非道に言及しだしたらキリがないので一度ここで視点を、論点を変えてみるとしよう。

ピンチはチャンスとかいうよね

私はこの言葉が嫌いだが、あえて使わせていただこう。

みなさんの、国への政府への文句を言いたい気持ちは山々だろう。それは上記で愚痴ったことからもわかるように私とて同じだ。

しかし、ここではその国に対する不満を述べるのではなく、それ以前のことに立ち返って話をしたいと思う。

裏を返せば、これはいい機会(チャンス)なのだ。

いや、むしろいい機会ならこれまでに幾度もあった。

だが人々はいまの自分の生活の維持、向上、娯楽に耽溺することに夢中で、そのチャンスを幾度も逃してきた。

そしてここにきて、無視できない事態に直面したというわけだ。

これほど否が応でも社会に関心を持たざるを得ない機会というのも稀であろうし、これはいままでそうしたことについて考えてこなかった人たちが興味を持ってくれるいいチャンスだと思って本文を書いている。

この機会に一度、難しいことは考えなくていいので、まずはシンプルに考えていこう。

という考えを促すきっかけを与えてくれるのが、まさに本書『ベルリンうわの空』ではないかと思うのだ。

国はあなたのパパやママではない

そもそも国(ここでは民主主義としよう)というのは、あなたのことを無償の愛で面倒を見てくれるパパやママではない

いや、そうあってほしい気持ちはわかるし、建前では国(政府)自身もそのようなイメージ戦略を図っている。(選挙があるなどの諸々の理由から)

だが、もし「困ったときに面倒を見てほしい」と思うのなら、平時のときにこそ、意見をしたり、釘を刺したりして、選挙で選んだ人たちを監視をしていないといけないシステムなのだ。

他国ではあんなに保障してくれているというのに!

それに比べて日本は何をやっているんだ!

こういう怒りのツイートはたくさん見る。

それらの意見は至極ごもっともなのだが、元をたどればその状況を招いたのは実のところ、我々国民なのだ。

私は安倍政権なんか選んでないぞ!

だって、投票したい党がいないんだもん…

 

その気持ちも、よくわかる。

だけど、私たちにできることは「投票すること」だけではなかったりする。

私がそうしたことに関心を持ち、知ろうと思ったきっかけとなったのも香山哲さんのおかげだった。

あらすじ(内容)

『ベルリンうわの空』は、ベルリンに移住した香山さんが滞在中に感じたことを綴っているエッセイ風の漫画だ。

日本という国で長年暮らしたあとで、ドイツのベルリンという街に移住したことで見えてくる様々な文化の違いや、福祉制度の違い、民族の多様性などを、彼自身の等身大の感性で感じたことを訥々と綴っている。

香山さん自身、身体が弱い(フィジカルもメンタルも)体質の人なので、非常にマイノリティ寄りの人間だ。

資本主義社会の競争からは距離を取りたいタイプの人だ。(私もそう)

それは、繊細だとか、感性が優れているのだとか、そういう点を強調したいわけではない。ある意味で怠けものである私たちと同じ目線に立っている人、ということを強調したくてマイノリティ寄りと述べたのだ。

本書でも、そうした描写がたくさん出てくる。日常の小さなことから、ちょっとスケールの大きい社会のことまで。

一人で考えたり、現地の友達と話したりして、日々頭を悩ませたり、休憩したりする日常が描かれている。

いまここにある日常の風景から見えるもの

日常というのは、少し目を凝らせば、事情を知れば、たくさんの問題で溢れている。

たとえばあなたは、街頭での「国境なき医師団」による募金活動に耳を傾けたり、足を止めたりしたことはあるだろうか。

あるいは、ゴミをたくさん積んだ自転車をおぼつかない足取りで道行く浮浪者のことを、なぜ彼がそうなってしまったのか、この寒さをどうやって凌いでいるのか、考えたことがあるだろうか。

 

まったく気に留めることもなく足早に前を素通りしたり、異臭に顔をしかめながら見ないふりをして通り過ぎる。

それは日本という社会を生きてきて、日本人という国民性を獲得した多くの人々にとっては、当たり前の光景であり、当たり前の行動なのだと思う。

私とて、こうしたことを考えるようになるまでは、ずっと目を背けてきた。

今だって、問題を知ったからといって、なにか社会的な活動に目覚めたり、ボランティア活動を始めたりしているわけではない。

そして『ベルリンうわの空』もそう。

一日に5%だけ、社会、福祉について考える

もちろん一番いいのは、問題を知ったなら即行動、アクティブに動くことなのだろう。

だが我々の多くは凡人だ。志の高い人のように、思い立ったその日から慈善活動に身を投じるほどの熱意も勇気もない。

そして社会の問題は一つじゃないと思い知る。山積みなのだ。そのあらゆる問題を前に、足がすくむ。自分なんかが行動を起こしたところで、世の中は変わらないではないかと諦めそうになる。

けれど、一日のうち、いや、一週間のうち、5%だけでも、そうしたことについて考える、あるいは行動する。それは無意味ではないことを本書は教えてくれる。

そう、常に聖人君子のように振舞う必要はないのだ。

私たちには私たちの生活があり、仕事があって、人間関係があって、自分の人生なのだから、それを犠牲にしてまで行動することはないと思う。それはエネルギッシュで、できる人がやればいいと思う。ようは役割分担だ。

だけどこの人生が、楽しいと思える人生が生きられているのも、過去の人たちが築いてくれた基盤があるからこそなのだ。

それが傲慢だったり、怠惰だったりする人たちによって破壊されてしまうのは、なんとも悲しいことだと思わないだろうか。私は少し責任を感じる。そうした人たちにブレーキをかける機会があったのに、それをしなかったことへの後悔の念が。

それを守れる機会があるうちに、ほんの少しでいいから、日常に潜んでいる社会の問題に目を向けて、小さな行動を起こしてみる。それはお金が絡まないことであってもいい。一瞬の出来事における、さりげない優しさであってもいい。

疲れているときは、なにもしなくていい。

自分の心に少し余裕があるとき、機嫌がいいときだけでもいい。

それが、未来の子供たちに恥じない、大人の姿ではないだろうか。

 

ほんの小さな無関心の積み重ねが、いまの事態を招いている。

だとしたら、ほんの小さな関心が、いまの事態を少しでもマシなものに変えていたかもしれない未来があったともいえないだろうか。

本書はそうしたことを考える芽のようなものを、押しつけがましくなく、与えてくれる。