「明日がある」という言葉を聞いて、あなたはどんなイメージを思い浮かべるだろうか。
通俗的には「明日があるさ」などという曲に代表されるように、その言葉は「希望」という意味を伴って語られることが多いように思う。
それはちょうど、「未来」という言葉に希望を感じるのと同じように。
しかし私は違う。
私のような失われた人間は、「明日がある」という言葉にも「未来」という言葉にも、希望を感ずることはできない。
私にとっては絶望を直視させてくれるものこそ、生きていくうえで必要なエネルギーを与えられ、慰撫され、安心感を覚えることができるのだ。
そこでは極力、嘘や欺瞞といったものは排除されている。
俗人の好む「見て見ぬふり」など、一切許されない。
その世界こそが私には心地良い。
「細胞は日々、生まれ変わり続けている」
そんな哲学に救われ、涙を流したときにはすでに、その希望も打ち砕かれていた。
その涙は「一足遅かった」という悔し涙であった。
「その細胞さえ、破壊するのが●●●」
死が降り注ぐ世界という意味では、地球上の何処にいようと逃げ場など、絶対安全な場所など、存在しないのはわかっている。
だが、人類が経験したことのない未曾有の出来事。
ロシアンルーレットのリボルバーが常に回転する、選ばれ放題のアトランダムの死と、生き地獄が待っているこの国。
そしてそれをひた隠しに隠し続ける人間。自ら隠したことさえ忘れて「なぜだなぜだ」とのたうち回り、死に絶えていく人々。
終わった世界で生きていくということは、地獄のようでもあり、天国のようでもある。
人はどこまでいっても、孤独。
私はもう、切り離されてしまった側の人間だが、それは気付くか気付かないかの違いでしかない。
せいぜい、あるか無きかの残された時間の中で、孤独という宇宙に目を凝らし、生まれてきた意味なんかを(以下判読不能)
ただ残酷なのは、そうした大人の都合によって抑圧され、振り回される子供たちだ。
大人は勝手に死んでいけばいい。
だが、身勝手な大人のもとに生まれついた命への責任は、誰がとるのか。
時として、子供のほうが現実を見抜く力は長けている。
だがそれは、大人の力でねじ伏せられる。
たかだか百年にも満たない「経験」と、無意味に肥大した「図体」という暴力を伴って。
子供のことを尊重できぬ社会など、滅びて当然だ。