『読書会入門 人が本で交わる場所』読書会にまだ参加したことがない人も読書会主催者も必読! ただの紹介本やノウハウ本とは違う、知への刺激に溢れた本だった

友人がおすすめしていた本を手に取った。

というのも、私は今年に入って初めて読書会というものに参加し、その面白さを知り、幾人かの友人もでき、何度か参加しているうちにどういうわけか、主催をやらせてもらえる機会にも恵まれたことで、日々を生きることに張り合いが出てきて、読書会の有難さを身に染みて感じていた。そんな矢先だった。

 

こちらの本が出版されたのはつい最近のこと。

内容的にはどんなことが書かれているのか、タイトルからは想像ができなかったが、主催者目線での学びがあればいいなとか、そうでなくとも読書会初心者にどんな言葉で楽しさを伝えるのかなと興味津々で迷わず購入。

したらば本を繰る手が止まらず、朝の出勤前の時間、通勤時間、仕事中の休憩時間という隙間時間であっという間に読了した。

読書会入門 人が本で交わる場所

猫町倶楽部という読書会の名前は、読書会をリサーチしたことがある人ならその名を耳にしたことがあるかもしれない。

私もその中の一人で、名前だけはなんとなく知っていた。

本書はその猫町倶楽部という読書会を立ち上げた山本多津也さんが、読書の、とりわけ読書「会」の魅力について余すことなく綴っている。

読書の壁

「本が好きです」「趣味は読書です」

こうした言葉を、プライベートな関係を築いていない人に発するとき、ほとんどの確率で「うわ、さっすが」「インテリやね」「意識高いね」といったような言葉を返される。

口にこそしないが、「じゃあ頭がいいんだろう」とか「読書家自称しといてあんま頭良くなくね?」といったイメージを抱かれているような気もするため、「読書が好き」とは浅い関係の人間には言わないようにしている。

事実、私はそれなりに本を読むわりには、頭がよろしくない。

それは、何を以てして頭の良し悪しを決めるのか、という問題もあるにはあるが、それは脇に置くとして、ここで挙げるのは「お金に換えられるかどうか」だと定義しよう。

そう、ビジネススキル。もしくは、サバイバル的な(想定外の状況をすり抜ける)スキルでも構わない。処世術とか。

そうした、なにか現実的に功利をもたらしてくれるようなスキルが磨かれることを前提として求められている世の中において、「読書」にどういったメリットがあるのかと。

読書の理由

私が読書を続ける理由はなんだろうか。

無趣味だから?ゲーム音痴だから?

それもある。

 

だがそれだけが理由というのはちと寂しい。

胸に手を当てて考える。

……「言語化できない自分の感情を、取り出して言語化したい」という欲求。

白黒付かない事柄に遭遇したとき、私はどんな選択を取れるのだろうか。

その選択の幅を広げておきたい、というのがあるかもしれない。

 

しかしそれは有限である人生、(個人にとって)有限である世の中を生きていくために必要なことなのか?と聞かれれば、お金の世界に重きを置くのなら答えはNOだろう。

むしろそことは対極にある。

このブログでも何度か申し上げているように、私にはどういうわけか、金を稼ぐということへの抵抗がある。(ただただ労働が嫌いという理由もある)

その金がどういった金なのか、どういったカラクリによって生み出された金なのか、といったことを考えずにはいられないのだ。

世の中でお金を集めるのが上手い人間は、(もちろんすべてとはいわないが)善良な人間であることは稀なのではないかと思っている。

大なり小なり自分を欺いたり、あるいは大胆にも、公然と詐欺を働いたほうが金は集まるのではないか。

もちろん、そこにはベクトルはなんであれ、努力や労力が注がれていることはわかるし、そこを磨いて現金に換える力には感嘆する。皮肉ではなく。自分にはそこまでできる能力がもともと備わっていないことは認めざるを得ない。

「それは単なる努力不足だ」といわれても、その努力不足を補うためになにをすべきなのかがわからないし、仮に頭の良い人たちに教えられても、頭の良い人たちの言っている意味をまず咀嚼し、理解するところから甚大な努力をしなければならない人間なのだ。

スタートラインがあまりにも違いすぎる…。

 

だから私は諦めたのだ。金を稼げる人間ではないのだと。

昨日までは、なにか高尚なことを書いてやるつもりだった。

だが、いまこうして筆を進めているうちに、単なる能力の無さが浮き彫りになるだけで、虚しい。

 

そこで、行きついたのが、読書、というわけだ。

安易に白か黒かをはっきりさせず、グレーに留まり続ける力。

私はこれこそ「知性」ではないかと思います。

(しめた!)

そうなのだ。私が読書を続ける理由、それは真の知性を身に付けるた,;'.・(゚ε゚(O三(>_<`)o

読書会入門 人が本で交わる場所

 

ようするに、白黒はっきりさせる土俵の上には立つことさえ許されなかった私が、唯一戦える場所が、答えのない場所、「読書」だったというだけの話である。

私の動機なんて、しょせんそんなものなのだ。(はなほじ)

読書が趣味と名乗ることは…

それにしてもおかしな話で、なぜ「ゲームが好き」というと娯楽認定されて、「読書好き」というとそうはならないのだろうか。

いや、それは私自身「読書が好き」と公言することには抵抗があることからも窺い知れる。

なぜなら「インテリぶってる」とか思われるんじゃないか、「じゃあ賢いんだろうな」とかいった変な期待や大きな誤解を生むおそれがあるからだ。

 

そんな一見すると高尚に見える「読書」だが、実のところ意外とそうでもないのだ。

音楽や漫画、映画を例に取り上げてみればおわかりいただけるだろう。

同じカテゴリーに属するものであっても、そのなかにはさらに細分化されたジャンルというものがある。

邦画のベタベタな十代を狙った恋愛映画と、さまざまな経験を経たからこそわかる、わなわなと感情を揺さぶってくるヒューマンドラマの洋画を同列に語る者がいないように、本というものにも、「文学」というカテゴリーのなかにも、さまざまなジャンルが存在するのだ。

 

そういったことを加味せず、「読書」というだけで「特別なもの」「変わったもの」とレッテルを貼る日本社会の「読書」に対する風潮は、少し考え直さなければいけないだろう。

文化系の人たちは永らく、群れる喜びを知らなかった

読書会に参加し、主催していくなかで最近ひしひしと感じていることがある。

それは、内向的で映画と読書と散歩くらいしか遊ぶものを知らない人間は、簡単に詰む。それはもう実体験で実証済み。

 

私のこれまでの性分というのもあるが、人と交流すること、人とどこかへ出掛けて遊ぶこと、ちょっとしたパーリィに参加すること。それは今世の自分には参加権のないどこか遠い国での営みだと思っていた。

そのためか、私はこの歳になるまで人生というものを楽しんでこなかった。

いや、楽しむ術を知らなかったのだ。

 

それはなぜか。そういう場に参加している人間というのは、総じて遊びに慣れた連中であり、内向的人間が集うパーリィなど、この世に存在するはずがない。と決めつけていたからである。

しかも仮にもし、端からパーリィ慣れしたパーリィピーポーが集う場所へとむざむざと赴いて対面し、セッションしたところで、その温度差は結露となって私の脇という脇を蒸らすだけで、無駄に気疲れがして、全然心から楽しめない。

終いには絶望をお持ち帰りする羽目になるのは必至である。

 

だがしかし、文化的な共通項を持つ人たちだからといって、そうしたパーリィを楽しんではいけない、という法はないのだ。

文化系の人達は、誰かと一緒に楽しむことのできる遊びの種類が極端に少ない。

それこそ読書会や美術館めぐり、あるいはトークイベントに顔を出す、といったところでしょうか。

文化的なものが好きな人も、同じような人を見つけて、身体を動かすこともできるのだよと、自分の経験と、この本とが、認識という領域に引き上げてくれたのである。

読書会入門 人が本で交わる場所

だが、本書が語っているのはもっと突き抜けたことだ。

筆者はこうも述べている。

自分に固定された役割から逃げ出して、自分のことを誰も知らない場所に行ってみたい。

ふと見知らぬ街で暮らす自分の姿を思い浮かべて、そこにある種のロマンを感じるようなとき、私たちはきっと無意識に弱いつながりを求めているのだと思います。

広く深く、弱いつながり。

私が求めている人間関係はまさにこれで、つかず離れずの距離感を保った関係こそ、自分がフラットでいられる居心地の良い関係なのだ。

課題本読書会の意義

読書会には大きく分けて二つのタイプがある。

ひとつが本書で紹介されている「課題本」読書会、そしてもうひとつが「自由紹介型」読書会だ。

当然どちらにもそれぞれに魅力があるが、この本ではとりわけ「課題本読書会」の良さについて書かれている。

 

反対に、私が主催している読書会は課題本を設けず、フリーテーマで個々人が好きな本をそれぞれに持ち寄って紹介しあうスタイルで、こちらはこちらで面白い。

そもそもプレゼン能力のない私にとっては勉強になるし、人の紹介の仕方というのも十人十色で面白い。

 

だが、本書で紹介している「課題本読書会」には、筆舌に尽くしがたい魅力がある。

というのも、私はつい最近、「課題本読書会」に人生で初めて参加したのだ。

その初めての参加となった課題本読書会の選書はなんとあのロシアの文豪、レフ・トルストイの「アンナ・カレーニナ」だった。

この本、上中下と異様に長いのだが、二か月かけて読了し、その会に参加したのである。

 

これが、もう、刺激の宝庫で。日を追うごとにその印象が強烈になっていくのだ。

もちろん参加者の方たちとは初対面だった。

ただ同じ本を必死に読み通したという共通点だけで顔を合わせた人たち。

同じ本を読んだはずなのに、感想が千差万別。そんなの当たり前だろうと思わなくもないが、実際にその違いを目の前で身振り手振りで話す姿を見るという体験は、本当に考え方の異なる人間というものが、この世に存在するのだという事実を目の当たりにさせられる。

そしてそこに、正解はない。それぞれがそれぞれにどう感じたのか。それを聞くことでまた、自らに問い直し、なぜ自分はそう思ったのか、あるいはそう思わなかったのか。

同じ本を通して違う視点を知ることで生まれる驚きや喜び。

こんな体験は初めてのことだった。

 

どんなに感銘を受けた本でも、大好きで繰り返し読んだ本も、自分の中だけで咀嚼したのでは、実のところあまり記憶に残っていない。

これは本読みあるあるでもあるのだが、読書、とりわけ小説・文学といったものは、情緒的な印象は残りこそすれ、その感想を人に説明できるほどの記憶には残りづらいのだ。

これはなぜなのだろうか。非常にもったいないことをしているのではないか、と悩んでいたような気がしてきた。(本書を読んでいると)

 

それを解消してくれるのがこの「課題本読書会」なのだ。

私はそれをタイムリーに(猫街倶楽部ではないけれども)体験した。

 

「読み込んだ」と言っても差し支えないほどに、「読書をした」という経験が血肉になっている感覚があるのだ。

もちろんそれは、「理解した」というのとは違う。

むしろ「わからない」が深まったといえるかもしれない。

だがその経験こそが、ものを考える楽しみを、より深く味わい深いものにしてくれるのだ。

 

 

読書が好きだけど、ずっとそれは孤独な営みであると思ってきた人たちは大勢いるのではないだろうか。

本書はそんな考え方に風穴を空けてくれる。

 

ちなみに私は片手間で哲学カフェも始動させはじめた。

本書はそうした文化会を営む上で大切なことを教えてくれる。

ネトウヨである中年童貞、N氏の話はとても考えさせられた。

「意見の異なる者を、排斥しない」

それはコミュニティを運営する上ではとても難しい問題だ。

だが、本当に山本さんの言葉を読んでいると、その混沌の先にこそ、上辺だけではない多様性が広がっているのではないかと感じた。

 

今後の哲学カフェや、いずれ運営するであろう課題本読書会のポリシーにも反映させたいと思った。

 

見てごらん 誰も
傷つけようとはしてない
それぞれの信念を 盲信し
悦んでいるだけだろう