寺尾紗穂『原発労働者』一人の音楽家が見つめた平時の原発労働者の声なき声を掬いあげた渾身のルポルタージュ

寺尾紗穂さん。

youtubeを漁っていると「冬にわかれて」というバンドの『なんにもいらない』という歌と出会った。

そのピアノ&ボーカルを務めていたのが寺尾紗穂さんで、この方は昔結成されていたバンド「シュガー・ベイブ」のベーシストであった故人・寺尾次郎氏の娘さんだ。

 

さっそくCDを買い求め、「これは生で聴けたら最高だろうな」と思っていた。

そんな矢先、福岡とらきつね主催で「冬にわかれて」のライブが6月7日に行われた。

調べていくと、どうやらとらきつねと紗穂さんの縁は深く、たびたびトークやライブなども行っているようだ。

当日はとても素晴らしい演奏が聴けた上、ずっと気になっていた著書『原発労働者』を会場で買うこともできた。

 

この本の入り口は、私の拙い言葉で説明するよりも、著者である寺尾紗穂さん自らの言葉、それも帯に書いてある言葉を引用したほうがストレートに伝わると思うので、以下引用させていただく。

日本に地震があるから、津波があるから、ではない。
安全基準が信用できないから、放射能が漏れると怖いから、でもない。
今から私がスポットをあてるのは、
チェルノブイリや福島のような大事故となった非常時の原発ではなく、
平時の原発で働き、日常的な定期検査やトラブル処理をこなしていく人々だ。
彼らの視点に立つことで、社会にとっての原発、ではなく、
労働現場としての原発、労働者にとっての原発、といった角度から、
原発をとらえなおしたい。

2011年以降、原発は賛成か反対か、という二者択一を迫られているような気がするのは私だけではあるまい。

いや、その話を持ち出すことさえタブーとなってしまった節さえある。二の句には何を告げるのか。皆一様に、固唾をのむような空気感。(そんな状況にさえならないことが99%であろうが)

 

だが、本当に話し合いたいことは、原発の稼働に賛成か反対かという単純な問題ではなく、それよりもっと重要な「何か」についてなのだ。

社会の問題は、放置したままでよくなるはずがないのは自明の理だろう。

目を向けたくない問題だからこそ、いま一度向き直る必要がある。

それを少しだけ容易にしてくれるのが、本書の取り上げる「平時の原発における、原発で実際に働く人々の生の声」だ。(2011年より前の、国内何か所にもある原発労働者で働いていた人たちや、2011年以後も働いている人たちの声だ)

 

そこから見えてくるのは、事故前から常にあった杜撰な管理体制、日常茶飯事の隠喩、捏造、多重請負による上下構造、被ばくの問題、そして守られることのない非正規雇用の使い捨て労働者たち…。

さらには熟練の現場監督や技師たち後継者が育っていないこと。

これから彼らが年老いて現場を離れることになったとき、いったい誰が原発を安全に運用するというのか。

原発を、いち労働の現場としてだけ切り取るなら、こんな当たり前の問題にすら目を向けず、「金の成る木」として恩恵を受けている一部の人間だけのために運用され続けている原発とはいったいなんなのだろうか。

「とはいっても、その場で働いている人たちはどうなるのか」

もちろんそんな声も忘れたわけではない。いやむしろ、そんな声にこそ本書は耳を傾けながら、働く人たちだからこそ感じていること、見えている景色を踏まえたうえで、考察に導いてくれる。

 

私自身は原子力発電からどうにか徐々にでもシフトチェンジしていき、最後には手放す必要があると思っている。それは本書を読む前からそうだった。今もその考えに変わりはない。

人間に「太陽」など、コントロールできるはずもないのだから。

 

原発と聞くと、なにか近未来的な、ほとんどが機械任せで動いているようなイメージを持つが、決してそんなことはない。むしろここまで肉体労働が欠かせない発電方法は、現代的というにはほど遠い。

著者は言う。

今この瞬間も、私は人を踏んづけて生きている。

そして、私が踏んづけている人々は顔のない人でも、意志のない人でもない。笑い、怒り、耐え、幸せを望む、普通の人間だ。

 

本書では、著者は賛成反対という言葉では締め括らない。

それはそれぞれが考え、結論すること。

寺尾紗穂さんが本書で伝えようとしていたのは、あなたの頭で、当事者意識を持って考えてほしい。という、そんなメッセージなのだ。

 

紗穂さんは自身のアーティスト活動、また二児の母でありながら、様々な原発で働く人たちとアポを取り、取材に赴き、本書を執筆しているのだから、たまげる。

 

これはきっと、原発のことに限った問題ではなく、同時に様々な場所で働くひとたちの労働問題でもある。

ぜひ多くの人に読んでもらいたい一冊だ。