田房永子『他人のセックスを見ながら考えた』を読みながら私は男女の間にある認識の隔たりについて改めて考えさせられた

男と女。両者が相手の気持ちに探りを入れるとき、そこにはなにかしら、どう手を伸ばしても届かない場所がある。

どれだけ女性の気持ちを推し量ってみても、ある一定のラインで思考停止状態になる。

それ以上考えても、なにも浮かばない瞬間が訪れる。

それから、男として生まれてしまったことに対しての申し訳なさや、ある女性たちが忌み嫌う「男」と私は違うのだ、と訴えたくなる。

だがそれも、紙一重のような気がして、100%違うとも言い切れない自分がいる。

自分が男でいることの煮え切らなさを、私は結構前から、感じていたように思う。

 

これまで何冊かの『女性から見た「エッチなこと」に対する見解や考察のあれこれ』を読んできた男である私の、暫定的な所感だが、『女性の「エッチなこと」に対する好奇心や感じ方は、男性のそれと大差がないのではないか』ということに薄々気付きはじめた。

などというと、「ぐへへ、やっぱそうやったんか、女もほんとはまんざらでもないんやろ」とか「やっぱあんとき、欲情しとったんやな」などと、自分に都合の良い解釈をする短絡的な男どもが必ず現れる。

だが、さきほど述べたことには、重要な補足事項がある。

「安全、安心が保証されていること」だ。

性的なことへの興味・関心を持ってはいても、それを人前で、(男の前で)晒すことを良しとしない文化。女はおしとやかであれ、けれども男が要求するときは破廉恥であれ、というまったく男にとっての都合しか考えられていない文化的背景。

また、性欲があることを下手に知られてしまうと、何をされるかわからないという恐怖、危険が伴う。

それゆえに、男のように性に対して奔放になれないでいるのが、「女性」ではないのか。

もしも女性に、そうしたリスクがないとすれば、「男と女は性欲が違う」などという、男が隠れ蓑としてよく使う虚言は、生まれていなかっただろう。

 

私はいつの頃からか、女性が執筆した(女性向けに書かれた)エロ関係の書籍を好んで見るようになっていた。読み進める速度と集中力が凄まじい。

そこにはもちろん、助平な気持ちがないと言えば嘘になる。

だがそれよりも、女性はどんなときにリラックスできるのか。そもそもリラックスできているのか。ということが気になっていた。

今回読んだ『他人のセックスを見ながら考えた』で判明したのは、多くの女性は、やはり緊張を強いられている、という事実だった。

私は子供の頃から両親の顔色ばかり窺って、その場を取り繕うという能力が鍛えられていたため、世の女性の「緊張感」がなんとなく感ぜられていた。

だんだん歳を重ねるごとに、それは次第に確信に変わっていった。

私が男である、というだけで警戒されたり、緊張されたりしているのが伝わってくるのだ。(これは、女性の前で「自分が緊張している」といままでは思っていた。だがこれもミラーニューロンによるものだったのかもしれない)

だがなぜ、無害な私に対してそのような警戒心を露わにするのか、世の男と一緒くたにされているという事実が、腹立たしくもあった。

 

田房永子氏といえば、あの『しんどい母から逃げる!!』などの毒親について書かれた漫画で有名な方で、私は本書を読むまで、エロ雑誌のライターだとは知らなかった。

やはり、女性の口から語られる「女が感じる瞬間」「感じるということについて」ほど正確無比なものはないだろう。その点でもとても勉強になった。

いくら男が「女の体はこれで反応する!!」と力説したところで、「ゆうてお前、女じゃないからな」という塩梅である。

 

ここでひとつ、男女のセックス観について考察したいと思う。

まず、大前提として、女性は決して男性器に欲情しているわけではない、ということは言わずもがなであろう。(もちろん、愛する男性のソレ、となると話は別だ)

このことは、言うまでもないことだとは思うが、よく、男性の間では「大きいか小さいか」が問題にされる(らしい)が、その時点で、セックスへの、女性への偏見につながっていると思うのだ。(小さすぎるのは…問題もあるのだが、ここでは論点とずれるので割愛する)

それでは一体、セックス時において、女性は何に感応しているのか。

これは自分の憶測だが、女性は自分自身の体のセンサー、それ自体をキャッチしているのではないだろうかと。

それはつまり、女性は女性自身の体の感覚に浸ることによって、徐々に快感を覚えていくのではないだろうかという仮説だ。(女性向けAVなどは、その女優に自身を投影することによって欲情するそうだ)

この仮説をさらに発展させるとすると、セックスにおいて最も重要な鍵となるのは、男にとっても女にとっても「女性の身体」なのだ。女性の身体が資本なのだ。

 

であるにもかかわらず、だ。

男がセックスを語りはじめると、自分の技量ばかりやたら誇示したがる傾向にある。

 

なぜそうなってしまうのか。

男性はまず、自分の性器で考えてみよう。

たとえば、ヘソに向かっていきり立ったイチモツを、沿っている側とは反対の、股ぐらの方に向かって強引に引っ張っていったらどうなるだろう。

当然、これは痛い。これである。

これはある意味当たり前のこととして、当たり前すぎて、誰もそのことについて触れも考えもしない既成事実として男女間で暗黙のうちに認識しているようだが、(女性がそう認識できているのは、ひとえに見た目にわかりやすい、というのがある。見るからに固くなったアレを、逆方向に押し倒すのは誰が見ても憚られるだろう)

こと、女性の体になると話は違ってくる。

なにせ、女性のそれは内に秘められている。

このように、見た目にはわからない、わかりやすくない、がために、女性が「本当に気持ちいいのか」「痛くないのか」という点にまで配慮が及ばないのではないだろうか。(無論、むくつけき男という、ただそれだけの理由や、男性向けAVの誤った情報にも問題はある)

 

昔パラパラと読んだ胡散臭い男性向けセックス指南書に書いてあったのだが、そのとき女性の体は「宇宙」として例えられていた。その点はまんざら嘘ではないなと、いまにして思う。

ちまたには、「脳イキ」などという、女性しか感じることのできないエクスタシーを提供できる男性がいるらしい。

それももしかすると、女性の体を目覚めさせることができない男性で溢れているために、女性の本来持っている感覚が鈍っているだけで、本来はそのくらい鋭敏な感覚を持っているのが女性という生き物なのかもしれない。

 

それはなんとなく普段生活していてもわかる気がする。

機転の利く人間というのは、やはり男性よりも女性のほうが多い。

あれは、皮膚感覚や気配などを知覚する能力が優れていることの現れではないだろうか。(それゆえに女性間でのいざこざも起こりやすいのだろうが)

 

本書の第5章からは、田房氏が大人になったからこそ書けるようになったのだなという、鋭い考察が随所に見られ、この章だけでも読む価値はある。

 

ちなみに、村上春樹の小説を読むときよりも勃起する回数は少なかった。(というか皆無)

タイトルに「セックス」というワードこそ入ってはいるものの、どちらかというと、硬派なルポ、エッセイであった。