映画『勝手にふるえてろ』自意識こじらせ馬鹿野郎どもに捧げる、愛の平手打ち

予告

抽象的ネタバレ考察(感想)

 

あのさ、あたし、ヨシカを怒らせるようなことをしちゃったのかな?
しちゃってたら謝る。ごめんなさい。

 

怒らせるようなことをしたのだと、その理由について思いを馳せるでもなく、「とりあえず謝る」というのは、私の価値観からすれば、アウト、だ。

だけれども、ピンとこない人もいるだろう。

きっと世間では、それが標準で、そのことについて深く考えない代わりに、
友達や恋人、家族と食事をしたり旅行に行ったりして、写真を撮り思い出を作り、楽しむもの…いや。

ときに喧嘩をしたりして、怒ったり泣いたりして、喜怒哀楽の中でもがいている人たちなのだろう。

 

嫉妬はする。当然。
めちゃくちゃになってしまえばいいのに。と、思わないと言えば嘘になる。

 

冒頭に書いた台詞が、人を傷つけるということを知らない人が生きている。それが世の中。

だけどそうした考えもすべて、個人個人の自意識の強さに起因するものであり、完璧など望めないし、相手の気に障ることがなんなのかなんて気にし続けていたら、きっと言葉は凶器にしかなりえず、あるいは、その凶器を胸の内に仕舞い込み、己に突き刺すことでしか、応急処置は望めないだろう。

 

私が好きなのは、傷つけ合うことの先にある、痛みを伴わなければ気付けない、「わからなさ」を理解しようという姿勢を見せる人だ。

それができない人であれば、ただその人とは、この人生において、「わかりあえなかった」ということを「教えてくれた存在」として、ただ、人生の刹那に、交わり合った「点」なのだ。

時々思う。
教室の隅で、目立たない存在だった私たちは、みんな、どこへ行ってしまったのか。

捨てたくても捨てきれない、重たい重たいいびつな自我を抱きかかえたまま大人になった私たちは、あの頃ズタズタで、バラバラで、ドロドロで。
いまは誰にも知られないまま涙を流してる。

人生は痛いことの連続だ。
小さな棘ばかり刺さる。そしてそれを抜いてくれる「誰か」を、待ちわびている。

 

だけど本当は、誰も取り除いてはくれないし、自分で抜くしかないのだ。

映画のように上手くはいかないだろう。

キリシマくんなんて、踏み込んできてくれる人間なんて、男女ともに、絶滅危惧種に近いだろう。
現実に王子様なんて、いないのだから。

 

だけど、ヨシカのように、「勝手にふるえてろ」と、自らを奮い立たせ励ますことなら、叶わないことではないのだ。
自分を救えるのは、自分自身。

それを教えてくれたのは、最近自分の身に起きた出来事と、それから、この映画かもしれない。

 

監督 大九明子