竹宮ゆゆこ『応えろ生きてる星』渡會将士氏推薦小説 「とらドラ!」の作者と知らずに読んだ私が率直に感じた正直な感想

ひっさびさに、エンタメ小説とは、これか。という本を読んだ。

私は中学生くらいのときからずっと、「流行りもの」というのが大嫌いな性質の人間であった。

それは今も変わらないのだが、現在のように、なにか明確な理由・理屈があってのことではなかったように思う。

「ただ、なんとなく」

だが、それに続く言葉が、いまなら言語化できる。

それは、「ただなんとなく、流行りものに自分が知りたい真実(教訓)はないな」ということ。

 

そんなことを、昔の自分は知っていたのかいないのか、取捨選択するときの基準にしていたのかもしれない。

今回この本を手に取ったのは、私の敬愛するミュージシャン、渡會(わたらい)将士氏の対談記事を読んだからだ。

(記事の出だしには思いきり竹宮ゆゆこ「とらドラ!」の作者と書いてあるが、私は見過ごしていたようだ)

 

彼が本の帯に推薦文を書いていたというから、「渡會さんがおすすめするなら」と半ば妄信的な気持ちでこの本に手を伸ばした。

のだが、どうやらビジネス的な側面もあったようだ。(とまた、余計なことをいう)

いや、しかし彼の感性を持ってすれば、汲み取れないことなど、この世にないのかもしれない。

生まれ変わろうとした日々は
僕を愛せない日々だった
体は前を向いて
生まれ変わり続けていた
君を愛するように
僕を愛せたら良かった
君は今、どうだい?
今、君はどうだい?

FoZZtone / LOVE

(FoZZtoneは渡會将士がVo&Gtを担当していた活動休止中のバンド)

 

最初の10ページくらいで、アニメっぽい口調、ベタな展開、美男美女…。

「おっと…」という懸念が頭をよぎったが、「渡會氏推薦、渡會氏推薦…」と念仏のようにブツブツ唱えながら、紆余曲折。最終ページまでたどり着くことができた。

 

とはいえ、読後にはたしかに、この本が伝えたかったこと、メッセージ性なるものはキャッチできたと思う。それも嫌悪感もさほどなく。

それにこの本がべらぼうに売れている(流行の本)というわけではない。

ただ、アニメ『とらドラ!』というネームバリューのある人物が書いたもの、という点では流行りものだ。(私は「『とらドラ!』は泣ける」という情報しか知らないが)

だが今回の小説は、ラノベ作家としてではなく、ちゃんとした小説家の一人として、出版社別の文庫本棚に並べられていたわけで。

ビジネス的側面があったにせよ、渡會氏が感想をでっちあげたとも思えない程度には、内容のある本だった。

 

だがしかし、だがしかし、だ。

この胸に残るしこりはなんだろうか。

私は中途から、そのしこりの正体を探るべく本書を読み進めていた節もあった。

おそらく、それは、『「メッセージを伝えるため」に描かれた人々』に、辟易させられてしまったのが原因かもしれない。

 

もし『応えろ生きてる星』を、男性作家が書いていたら、間違いなく読むのをやめていた。

それくらいに、ヒロインの描写が甘ったるい。才色兼備の女性。完璧な女性。(まあそれがある意味この本のメッセージ性を強固にするプロットでもあるのだが)

読者は全然笑えもしないギャグに付き合わされ、しかしながら物語のなかのキャラクターである男女はこれでもかと何度も爆笑している。(冷めた目)

 

この本を読んで収穫だったことは、「エンタメ小説はもう読まなくていいかな」ということと、「読み進めるのが苦痛に感じたら、途中であっても投げ出していい」ということだ。

ひとつ断っておくと、なにもこの本自体が悪いわけではない。

ただ単純に、「肌に合わない」それだけのこと。

というと、巷ではよく「食わず嫌いは良くない」だとか、「先入観がどうたら」だとか言って、「視野を広く」と啓発してくるが、そんなことは百も承知の助である。

これは、「視野を広く系発言」の落とし穴、あるいは罠だと思われるのだが、(そこに悪意や他意はないにせよ)

結局、好きなものへの熱意に時間を割いたほうが、学ぶべきことは多いと思うのだ。

視野の広がりなど、「思いがけず出会った・知った」くらいでいいと思う。

個人という限られた時間のなかで、そこ(視野を広げるため)に傾注する必要があるのかどうかは、甚だ疑問だ。

 

「食わず嫌いも、尖れば個性になる」

今はもう、そんな時代に差し掛かっているのではないだろうか。

 

もちろんこのように、普段自分から手を伸ばさないであろうジャンルの本を読むことで得られることはある。

だがそれも、「思いがけず」「結果的として」なわけで。

わざわざ視野を広げたくて読んだわけではない。

 

そしてもうひとつ、自分の嗜好で明確にわかったことがある。

それはたとえ小説であっても、「説明的すぎる」ものには白けてしまう、ということだ。

 

私は映画にせよ、漫画にせよ、音楽にせよ「受け手に聴かせてはいけない声」というのがあると思っている。

もしそれを伝えたいのであれば、言葉以外の手法で、いわゆる「行間」で伝えてほしいのだ。

「この説明で、果たして伝わるだろうか」という不安。

言われなくてもわかることを、ご丁寧にも何度も補足する行為は、作品の稚拙さにつながってしまう。

作り手のそのような不安は、伝わってきてしまうものだ。

 

もう僕らは、大人なのだ。自分の頭で考え、生きてきた、大人なのだ。

そこを信じてほしい。信頼してから、投げてほしい。

そう、私は思うのであった。