今村夏子『こちらあみ子』あみ子は悪い子?見て見ぬふりをしてきた私たちの「やるせなさ」を浮かび上がらせる太宰治賞受賞作品

世の中には、わかっていてもどうしようもない問題、やるせない問題というのがある。

それは誰が悪いとかではなく、いやむしろ、特定の誰かを悪者にできないからこそ、多くの人がその問題と向き合うことなく、大人になってもなお、おざなりにされている事柄というのがある。

なかでも、今回言及するのは、万人が子供の頃から知っている、身に覚えのある、体験したことのある出来事であり、世界と言い換えてもいい。

時々私はいまでも、どんな顔をすればいいのか、わからなくなるそうした場面に遭遇することがある。

それは私自身がその問題について、深く考えてこなかったこと、自分で考えても答えの出ない問いだったことが原因なのだろう。

 

幼稚園、小学校、中学校と、その問題について考える機会ならいくらでもあった。

だが、そのことについて立ち止まって考えるような時間は、与えられなかった。

唯一、機会があったとすれば「道徳」の授業がそれにあたるかもしれない。

しかし、あんなものは役に立ちはしなかった。

「違いを大切にしましょう」

答えはいつも、単純明快。

「あなたたちは、そんな問題を考えるより、授業や試験の勉強を暗記することのほうが、あなたたちの将来にとって、大事なことなのよ」

そう言って大人たちは、内心で胸をなでおろしていたのかもしれない。

「答えのない問い」に向き合う時間は、いつだって無視されてきた。

大人になるということは、そういうことなのだと、無言の圧力に背中を押されるかたちで、私たちは顔を伏せるか、目を逸らすか、奇異の目で見るか、苦笑するかして、その場をやり過ごす術だけ、身に付けてきた。

 

人間は知らず知らずのうちに、程度の差こそあれ、成長していく過程で、「空気を読む」という、優しさと狡猾さとが綯い交ぜになった技術を子供のころから身に付けてゆく。

だが、『こちらあみ子』の主人公、あみ子にはその能力がほとんどなかった。

あみ子はドジっ子だ。ドジっ子という可愛い形容で許されるほど、あみ子が犯してしまう罪は軽くはない。

ある人間にとっては、致命的なダメージともいえるやらかしを、あみ子はあらゆる人間に対して、いくつもいくつも犯してしまう。

だがそこには悪意がない。

ただ、純然たる衝動があり、欲動があるだけだ。

 

この絶妙な、言語化できないこと、いや、言語化できないと認識することさえ困難な事柄を、見事に小説という表現を使って、その人間界に横たわる「やるせなさ」を浮かび上がらせ、読者の心に確実になにかを残していく。

こう聞くと、重たい小説なのかと思われるかもしれないが、決してそんなことはない。

あみ子が引き起こす様々なエピソードには、胸を突かれる温かさがある。

 

今村夏子(敬省略)自身は、決して子供の頃から読書家だったわけではないようだ。

小説も、自分が書くまでほとんど読んだことがなかったという。

だからこそ、であろうか。何者かの影響を受けるということがなく、己の経験に基づいた物語や文体が個性となり、異彩を放っている。

個人的には、某芸人がたかだか一回試しに執筆してみて芥川賞を獲れるのなら、彼女はもうすでに二回もらっていてもおかしくはない。

今村夏子の文体こそ、「純文学作家」の名にふさわしい。と、私は思っている。

 

追記:

文庫本の巻末にある町田康の解説に、度肝を抜かれた。やはりこの人の洞察力たるや、、

そんな町田氏も絶賛する本書を、つよくつよくおすすめします。