景山民夫『クジラの来る海』放送作家ならではの経験値と視点、加えて宗教にハマったからこそ描けた哲学的ユーモア小説

景山民夫をご存知だろうか。

平成生まれには知らない人も多いだろう。

1947年東京生まれのわりと有名な放送作家だ。

みなさんが一度は聞いたことのある番組『タモリ倶楽部』を、一番初めに手掛けたのもこの景山民夫である。

彼は放送作家の傍ら、執筆活動にも勤しんでおり、88年には『遠い海から来たCOO』という小説で直木賞も受賞した経歴を持っている。

 

Wikipediaで調べるまでは知らなかったのだが、彼は生涯の後半期、某新興宗教に没頭していたのだそうだ。

そしてこの短編小説集『クジラの来る海』が書かれたのは、まさに彼がそんな宗教に没頭している時期と重なるというのだから面白い。

 

「え、そんな宗教に傾倒した人間が書いた文章なんて…」と敬遠したくなる気持ちもわかるが、私は一度、そのバックグラウンドを知らずに、最後まで面白く読み通すことができたのだ。

今回紹介するにあたって読み直していて、たしかに宗教チックというか、スピリチュアル系のテーマが大半を占めているな、といった感想は抱くが、どのストーリーもまったく偏りを感じさせない。リアルとイマジナリーのバランス感覚のある人が書く、繊細な文章、といった感じなのである。

宗教が敬遠される「四大事由」、「啓蒙・啓発・勧誘・誘導」といった類の事柄にはまったく触れられていない。

むしろ、彼が熱心に信仰していたのはギャグを磨くため、あるいは新興宗教の内部事情を探るための興味本位であったのではないのかと、疑いたくなるほど。(ご本人にしてみれば心外かもしれないが)

それほど、徹底して俯瞰した視点が保たれている作品なのだ。

 

だが、この作品をあらためて読み直してみても、やはり、やはり、表題作、『クジラの来る海』のインパクトは覆らなかった。

正直な話、どんな話だったのか、読み直すまですっかり忘れていた。

いや、たしかにオチで爆笑したことを覚えてはいたのだが、印象といえばその「爆笑した事実」だけで、内容はすっかり抜け落ちていた。

とはいえ、終盤も終盤になると徐々に記憶が蘇ってきていた。しかし、それでも私は家で一人、「あっはっは」と、爆笑してしまった。

それはひとえに、私が、小学生の頃から根っからの「オヤジギャグ好き」であることも関係しているのだろう。(ちなみにベタなオヤジギャグには嫌悪感すら覚えるので、ひねりのあるオヤジギャグしか受け付けない)

そういったことはあるにしても、全編に共通しているのは、「起承転」までは整然としている。まるで、綿密に練られ、構成された建築物のようなイメージを受けるストーリーの構成力なのだ。

にも拘わらず、丁重に積み上げた建築物を、僅か数ページでスポイルしてしまう。

これが、これこそが、私がほかの小説にはない、この小説特有の魅力、強く惹かれた理由である。

それはまるで、いままで家族四人で食卓を囲み、各々が黙々と食事を楽しんでいる席で、突如、一家の大黒柱である父親、ではなく、年齢でいえば一番下のはずの息子が、あろうことか、ちゃぶ台返しを行うような唐突さで、所狭しと並べられた料理の数々を台無しにするような、思わぬところからオチが飛び出してくるといった無茶苦茶ぶりなのである。

これには当然、「もったいなさ」を覚えてしまう。

ひょっとすると、最後の「結」の部分を、あと一歩だけ、突き詰めていれば、最終的には現在にまで語り継がれるような、名作が生まれていた可能性だってあったはずなのである。

それを彼は放棄した。完成した料理に手を付ける前に、あまりにも唐突に、匙を投げたのだ。

けれども、この点こそが、景山民夫の、『クジラの来る海』の、真骨頂であるのかもしれない。

これほど潔く、匙を投げられる勇気とはいったい。

大衆がそれを拾えずとも、「ここにいる私は、確かに拾いましたぞよ。」と心のなかで、いまは亡き民夫氏に告げるのであった。

 

この本に収録されている物語の八割は、どれもユーモラスな要素が散りばめられている。(『真説・クジラの来る海』『闇のリング』はユーモアとは違うが、別の感慨がある)

それは呼吸をするように、ごく自然に表れるユーモアセンスであり、彼が放送作家として業界の裏側に精通していたからこそわかる話の筋や、大衆ウケのなんたるかを心得ていたからこそ、書けた話であるともいえる。

本書を読めば、景山民夫が、テレビ業界の一線で活躍できていた所以を窺い知ることができる。(当時のこと知らんけど)

面白いので、暇つぶしに是非。