【村上春樹訳】マーセル・セロー『極北』滅びゆく人類と荒廃した世界で生きていく、これはいつか起こりうる現実の物語だ

生活が貧しくなり、これまで享受してきた生活の質が落ちてくると必然的に求められるのは原初的な生活の知恵である。

それはつまり食べられる植物を知っていることであり、農地を耕し狩りをする知識である。いわゆる農耕民族や狩猟採集民に見られたような自然との共存、自然との折り合いをつけた人間の「はじまりの生活」だ。

およそ現代では考えられないような、自給自足というシンプルな知恵知識こそが生きていく上で最上の糧となる。

それらを知らないことは、飢えという死に直結する。

その一方で、人間社会あるいは社会と呼ぶにはあまりにも小さく脆いコミュニティを形成するときであってさえ、人間が複数人集まり集団を形成したり取り引きをするような場合にはその様相は一変する。

そこでは狡猾さや猜疑心が生き延びる上で価値あるものという地位に取って代わるのだ。

だが、どちらの生活においても普遍の真実というのはある。
それは、「習慣」だ。

ひとたび破壊されてしまった生活の習慣も、再び形を変えて「習慣」を再構築し、そこで自らを叱咤し、歩かせることができれば、周りがどんな状況であれ、再び自らを生活の中に押し込むことができる。

物質至上主義との決別

財産を築くことが「成功者」とされる人類社会の長い歴史において、その価値観は一見盤石に見える。実際に数千年単位でそうした価値観が重用され、今もまだ、それは変わらず揺るぎないものとして続いている。

しかし、そうした考え方に異を唱える者、心の貧困化から抜け出したいと願い行動する人間というのは一定数出てくる。

それは現在でいうところのミニマリスト、ミレニアル世代といったところか。

彼らはそうした世相と相対し、自ら豊潤な生活にあえて背を向け、ミニマルな生活へと歩を進める。

だが彼らもまた、求めるところは「理想郷」であって、「カネとモノがある」生活か、「カネとモノから距離を置く」生活かを、カタログで見て選んで決めたようなものにすぎない。

しかしこの小説の世界では、望むと望まざるとに拘らず、人類の総数は自らの科学の発展によって激減し、淡々と生きていくための、前述した古来の生き方や、時折遭遇する人間に対処するための懐疑的ものの見方が、個人が生き延びるうえで必須のスキルとなる。

私は本書を読んでいて、フランクルの『夜と霧』の一節を思い出した。

わたしたちはためらわずに言うことができる。

いい人は帰ってこなかった、と。

真に荒廃した世界では、これこそが生き伸びる上での残酷な真実なのかもしれない。

己のなかに存在する残酷さというのはときに、己の命を救う。

これは何を意味しているのだろうか。

人類とは切っても切れない支配と被支配

どんなに世界が荒廃しようと、人間が生き残っている限り、支配という構図からは逃れられない。

さらにそれは、搾取されていて、奴隷労働への対価がそれに見合うものではないとわかってはいても、そこを離れれば自分では到底生きていきていかれない、となれば、「従うしかない」という思考に落ち着くのも無理はない。

それを支配者は「施してやっている」と言う。つまりそれは彼にしてみれば善行なのだ。

本書を読んでいると、このような「善悪の基準」についても、ふんだんに考えさせられた。

エピローグ

これほどまでに壮大で深淵な物語であるにも拘らず、ストーリーとしては見事に大団円を迎えて終わる。これだけの重量感と質を保っていながら、拍子抜けするほど物事が丸く収まる様に度肝を抜かれた。

個人的に、綺麗な終わりを迎える小説はあまり好きではない。

だが、この本に関しては見事という他ない。

まさにコロナ騒動で家から出られず、春を待ちわびるこの時期にこそ、読んでいただきたいおすすめの一冊だ。

 

マーセル・セロー (著), 村上 春樹 (翻訳)