町田康『告白』平成の30冊にも選ばれた町田康代表作 思弁的人間の懊悩、善悪、悲喜こもごも 時代を超えて読み継がれるパンク文学の金字塔

私が『告白』を読んだのはこれで二度目になる。

文庫本で842頁、厚さにして3.5cm。

That's right.

文庫本サイズでここまで分厚いものは、そうそうお目にかかれない。

 

芸術というのは全般においてそうだと思うのだが、一度目と二度目の鑑賞では、同じ作品でも感じ方が異なっている場合が往々にしてある。

しかもその感想というのは、あらすじ、内容をぼんやりとでも知っている状態で鑑賞することになるので、自ずと、より厳しい目線で評価することになる。

 

だが、こうして二度目の『告白』を読み終えたいまも、あのときの感慨は決して一時的な感情、陶酔的な気持ちだけではなかったことが相分かった。

二度目の『告白』もまた、私を捉えて離さなかった。

なぜ、これほどまでに惹き付けられてしまうのか。

一度目の通読では、ただただその読後感に圧倒されるばかりで、胸のなかにわだかまるこの得体の知れぬ感情はなんなのかと、その正体をまったく掴めぬまま、沈んだ心持ちで数日を過ごした。

と同時に、どこか、救われたような気持ちも、微かにあった。

それというのは、やっとこの、自分では到底言語化できなかった思いを、言い当ててくれるモノに出会えた、という喜び。

私のような人間の奥底にある、感情の澱を、引きずり出してくれた嬉しさに、少しばかり泣きたいような感動を胸の内で覚えていたからだ。

 

『告白』で描かれるのは、主人公、城戸熊太郎の半生である。

 

物語の主人公というのは大抵、大衆ウケの良いヒロイックな側面があったり、見る者がカタルシスを覚える悲劇性の持ち主であったりするものだが、この『告白』に登場する熊太郎は、そのどちらもが絶妙に欠落している。(厳密にいえば、私が読後に覚えていたのは紛れもないカタルシスなのだが)

 

熊太郎は、生まれながらの性質、生育環境も相まって、鈍くさく、生ぬるい人間であった。

単に、そうした人物像であれば、僅かばかりでも同情の余地があり、「気の毒な主人公だなあ」という種類の同情を引けるキャラクターとして読み進められていくのであろうが、熊太郎の場合、鈍くさくはあったが、幼少期はその鈍くささを巧妙に隠しつつ、どちらかといえば、ずる賢く立ち回れる餓鬼であったうえ、長ずるにつれて、飲酒、博打、女遊びへと入り浸るような、だらしのない人間であった。

そうと聞けば、社会的には褒められたものではないかもしれぬが、「社会からのはみ出し者」として「一目置かれる存在、キャラクターなのだろう」というような感想を、読者は抱きそうになるが、それも違う。

なぜ違うのかというと、熊太郎はそれらの行為を、人目を気にせず謳歌する、というよりは、少々の後ろめたさを感じながら、行っていたからである。

というのも、熊太郎は真面目に人生に取り組んでもよかった。よかったのだが、子供時代に起きたある被害的加害行為のおかげで、人生に投げやりになり、現実を直視すれば、たちまちにしてその問題と向き合わざるを得なくなる、得なくなるから、仕方なく、一瞬でも忘れられる飲酒・博打・女遊びに興じていたのである。

そんな、熊太郎の内面を知ってか知らずか、どんなに虚勢を張ろうとも、根を見透かされてしまうのであろう。

「鈍くさい人間」がまともな仕事もできぬから、「無頼者」として振舞っているだけであって、むしろ村の人間には、軽蔑や嘲弄の対象として、熊太郎のことをナメた目で見ていた。

それはそのまま、本書を読み進める読者に与えた、同様の感慨であったかもしれない。

 

そんな熊太郎ではあったが、折を見て、自力更生、回診転移、まともになろうと少しは努力をした。したのだけれども、甘やかされて育ったため、堪え性がなく、もともと気も弱いうえ、外聞ばかりを気にする。さらには捻じれに捻じれた自尊心やらが邪魔をして、百姓の家の倅であった熊太郎は、まともに田を耕すこともできぬまま、半端な無頼者と成り果てた。

博打に明け暮れ、幾度も借金をしては返済は親頼み、田は耕さぬは、屁をこくはの親不孝者。

あかんではないか。

 

しかし、そんなダメ人間の典型のような熊太郎ではあったが、彼が唯一、そんじょそこらの庶民とたしかに違っていたのは、生まれながらにして彼が「思弁的」であったことだった。

だが皮肉にも、この「思弁的」であったがゆえに、人と通じ合うための言葉を持てず、内向する自我を持て余し、それによって数々の災禍を招き寄せてしまう。

その最たるものが、後代まで語り継がれる、無差別殺人、「河内十人斬り」である。

河内十人斬り(かわちじゅうにんぎり)は、1893年(明治26年)に大阪府南東部の金剛山麓の赤阪水分(あかさかすいぶん)村で起こった殺人事件。

金銭・交際トラブルによって、名前通り10人殺害されて当時のビッグニュースとなり、小説・芝居にも使われ、浪曲師京山幸枝若により、大阪の伝統芸能である河内音頭の代表的な演目となった。

引用元:Wikipedia

改めてこの物語を紹介しなおそう。

本書は、「河内十人斬り」という明治期に起こった実際の事件を基に、城戸熊太郎がなぜ、その大量殺人を行うに至ったか、を創作した作品である。

 

「ただの殺人鬼やないか」

同情の余地など、ないように見えるだろうか。

だが、私がそうとも言い切れぬのは、熊太郎が内側で抱えていた闇。

並々ならぬ、思弁の澱は、私が時折感じる、ぬらぬらとした「ある部分」に触れてくるからだ。

 

実をいうと、私にも堪え性というものがない。

越し方27年。逃げ続けている人生である。

正直、仕事など、したくない。

一日四時間労働がいい。

週休五日がいい。

人生のつらいことは、なるべく避けて通りたい。

そして、そうしてきた。

 

食うていくために、働く。これが解せぬ。つらい。苦しい。やめたい。逃げたい。

 

こないだなどは、古書店で、トム・ルッツという人が書いた『働かないー「怠けもの」と呼ばれた人たち』なる書物のタイトルに魅了され、即刻、購入した。

とかく、働きたくないのである。

 

神が与えたもうた「労働」という罰に、生まれながらにして音を上げている、ダメ人間。

さりとて、熊太郎のように身を持ち崩すほどの勇気がない、真面目系ダメ人間。

 

それゆえであろうか。

このどうしようもない熊太郎の気持ちに、根がへなちょこ人間である私にも、どこか感応してしまう部分がある。

 

世に売られている本のほとんど、九割以上は、「ストイック」といっても過言ではないのではないだろうか。ん?過言ではないのではないのだろうか。

 

なにかを学ぼうとする姿勢。

いまよりもっと賢く、気高く、豊かな暮らしを。

元来、本というものは、知の宝庫ともいわれるように、己の知を、見識を広めるために存在している側面が強い。

だがそんなものは、私にとって、ただ疲れる、体力と精神力を削られるだけの代物であって、「向上心」などという言葉を見聞きするだけで、「ひっ」と悲鳴を上げそうになる。

 

では娯楽小説はどうなのか、というと、あれは、駄目である。

レディーメードの、現実をあまり見ないで済む物語というのは、どこか面白みに欠ける。

時間の無駄だと感じてしまう。

つらい時間を相殺するための、娯楽。

それは誰かが、あらかじめそうされることを望んで仕組まれたかのような有象無象の娯楽には、肥大した自尊心が、それを楽しむことを、己に許さぬのだ。

 

元来、そうしたもの(知識としての本、娯楽としての本)であるはずの「本」、「BOOK」。

まして、「文学」などというものは、高尚な感じがしてどこか敷居が高く、もしこれが人間であったなら、「あいつ、なに粋がっとんねん」「偉そうにしてけつかる」「どついたろか?」と言われても仕方がない、鼻につく顔立ち、出で立ちをしている。

だがその高尚と俗物の隙間を見事に薙ぎ、打ち砕くのが、町田文学であり、『告白』なのである。

ふざけているのか、いないのか。

 

残り200頁まで辛抱して読み進められたなら、あなたは衝撃的な言葉の斬撃に見舞われる。

 

 

それだけではない。

『告白』で語られるのは、この世の悪についてだ。

もしこれらの出来事が、物語の通りであったならば、個人的怨恨、で片付けられるほど単純な問題であっただろうか。

 

このようなつぶやきを残しながらも、随分と「青臭いな」と感じている自分もいる。

それに、このような強がりを言ったところで、自分になにができるというのか。

いまだって、社会を良くするためのなにかを、行っているわけでもない。

ここらへんは、いまもまだ、曖昧だ。

もやもやしたままだ。

 


 

私が死んだら、棺桶にこの本を一緒に居れてほしい。

私は一生、この、誰にも理解されないであろう「ぬらぬらした切り離せない感情」と共に生き、そして死ぬのであろう。

それを受け入れられたのも、『告白』のおかげなのだ。