ミヒャエル・エンデ『モモ』児童文学の名作 「時間」そのものを根源的に見つめ直せる一冊 「時間の花」の描写にはその美しさに思わず息をのんだ

積読していた本のひとつ。

そのわけは。

ひとつ、児童文学を読むことへの抵抗があったから。

ひとつ、言葉から情景を描写する小説は昔からイメージできなくて本そのものの世界に入り込めなかったから。

ひとつ、あまりにも名作名作といわれていたから。

 

なぜ児童文学でなければならなかったのか。

その意味がわかった気がした。

経済の話を真にたどるとき、必ずといっていいほどこの作者の名前が登場する。

「ミヒャエル・エンデ」ドイツ人だ。

生前、東洋の文化にも深い関心を示していたようで、日本への来日経験も何度かある。しかも奥さんは日本人だという。

 

そんなエンデの名前を知ってはいても、彼の作品を読んだことは一度もなかった。

だが、そうした経済的な視点から見たときの彼の人間的温かさや、予見的な言葉の数々を知るにつれ、尊敬の念は静かに募っていた。

 

ただ、どういうわけか、作品を読むとなると、「児童文学」というカテゴリーであることに抵抗があった。

やはりどうしても抽象的というか、イマジネーションを発揮しないとその世界の入り口に入ることすらできず、入場すら諦めてしまう。

数か月前に別の作者の児童文学にトライしていたこともあってか、そのときの感覚が思い起こされ、あまり乗り気になれなかったのだ。

そのときは作品を最後まで読み終えたわけだが、読後に感じたのは、「やっと終わったか」という感想だった。

もちろん、表記には平仮名やルビも多い。

だけど理由はそれだけではなかったのだ。

空想を楽しんだり、情景描写を頭のなかでイメージしたり、言葉を咀嚼して味わったりする。

それ自体が、時間の無駄だと、いや、無駄だとまでは思ってないにせよ、「もったいない」と思っていたことはたしかだったのだ。

そう、物語そのものを楽しむゆとりがない。

「なにか身になることを」「なにか得られることを」

そんな世の中の風潮に辟易していたはずの自分が、じつは常に飢えていたのだ。

 

こんなふうにいま思えるのも、どういうわけか、最近の心境の変化というか。

自分自身、とくだん変わったことはなかったのだけど。

ひとつあるとすれば、カードゲームや短歌作りの面白さに触れたことかもしれない。

とくに、短歌の効果は大きい。

だって、お金にもならなければ、身にもならない、人に喜ばれもしない、言ってしまえば、大人にとってはまったくの無駄な時間。ただの自己完結。自己満足。

頭を捻って、うんうん唸って、そのときの空想は誰にも届かない。

だけど、こんな時間こそ美しいと思った。私には必要だと思った。

カードゲームをしているときだってそうだ。単語を思い浮かべたり、色から連想したり。忘れていることがいっぱいある。

ある側面では大人に子供が勝るのは、大人が葬ってきた世界を、いま現在、子供たちは見ているからだ。

 

読み終わったからこそいえるのだが、これは本当に小学校五~六年生向けの読み物なのだろうか。

大人であっても、何度も読み返さなければその意味を掴みかねる言葉がいくつか登場した。

 

それとも子供の頃は、その想像力で、なんなく自分の心に色彩豊かな世界を再現できていたのだろうか。おそらく自分は、そういうことができる子供ではなかった。

この歳になって、ようやく、イメージのやり方、それをすることの楽しさを、そんな世界があることを、それを美しいと感じられる自分に、ようやく出会えた。そんな気がした。

光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。

そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。