ジブリ映画『思い出のマーニー』監督の策略にまんまと騙された!思考の迷宮に誘い、終盤の怒涛のネタバレで明かされる真相にしてやられた感動作

あんたみたいなひねくれ者でも、ジブリ映画を見るのか」という声が聞こえてきそうだが、私だってジブリ映画くらい見る。

なんなら子供時代はアクション映画よりもドラえもん映画よりもクレシン映画よりも、ジブリ映画派だった、といってもいいほどのジブリ好きだった。

気が付くと、ジブリ。気が付くと、ゲーム。並みに、「考える間」というものもなく、気が付くとジブリ映画を見ていた。

『となりのトトロ』なんて、生涯でいったい何回見たかしれない。

だが、その理由はよくわからない。

まあ、ジブリが嫌いという人を探すほうが困難だろうし、仮にそのような人がいたとしても、「ジブリが嫌い」なのではなく、「ジブリ映画というネームバリューに群がる軽薄な人間が嫌い」の間違いだろうし、私はそのようなひねくれ方はしていないほうのひねくれ者なので、助かった。

 

だが、某テレビ局の金曜ロードショー、略して「金ロー」の宣伝部長にはひとこと物申しておきたいことがある。

あの、「ノーカット版、放送!」というやつである。

この、さもプレミア感を演出してくる言葉ではあるが、あれに騙されてはいけない。

次週予告や、新聞のテレビ欄で、この、「ノーカット版、放送!」の文言に触れられていないときは十中八九、いや、十中十十(読み:じゅっちゅうじゅっじゅう)、「カット版なのである。

 

時々、地上波の映画を見ていて思ったことはないだろうか。

CM明け、

ん?あのシーンどうやって丸く収まったの?

あるいは

え?さっきのピンチはどうやって切り抜けたの?、え、え、ここどこ?

といった混乱をした経験が。

あれはすべて、「カット版詐欺」の仕業である。

スポンサーのために、作品の魂の一部分を削り取るという、もはや同じ作品と呼べるのかさえ危うい代物を放送しているだ。

そのカラクリに薄々勘付きはじめた頃から、私は地上波で映画を見ることはなくなった。

そもそも、「ノーカット版、放送!」であっても、スポンサーを挟んで見る映画は、作品に没入することが難しいので見る気がしない。

 

子供の頃は純真無垢であったため、この「ノーカット版放送!」の文字に深い期待を寄せ、意味を深く考えもせず、「本編には出てこない特別なシーンがあるのかも?」などという、今考えればちゃんちゃらおかしいことをなんの疑いもなく、ワクワク感を募らせながら、画面の前に座って見ていたものだった。

悲しいなあ。悔しいなあ。ぐすっ。

 

そこで、マーニーである。

『思い出のマーニー』は当時、映画館に一人で見に行った。

あれから四年。

映画を見直すきっかけとなったのが、youtubeのあなたへのおすすめに出てきたこちらの楽曲であった。

当時、映画館で見たとき、エンディングテーマとして流れていたこの唄は、劇中では翻訳されることがなく、さらりとした感じで「おわり」の文字へとバトンを繋ぐ役割を果たしていた。

がために、これほど詩が胸に突き刺さるものだったとは、思いもよらねがった。

監督はもしかすると、エンディングでこの唄の邦訳を入れることで、引力が一気にこちらに引き込まれてしまい、作品の余韻をすべて持っていかれることを恐れたのではないか、という詮索までしてしまった。

それほどに、この詩には静かな力がある。

夜更けに何時間も 自分の部屋で座って月を眺め
誰が私の名前を知っているか思いめぐらす
もし私が死んだら 泣いてくれる?
私の顔を覚えていてくれる?
Fine On The Outside / プリシラ・アーン

予告

抽象的ネタバレ考察(感想)

そもそも日本版の予告がお粗末だというのもある。

当時予告を見た人たちが「ジブリ初のレズ映画なのでは」という噂がまことしやかに流れていた。

いや、ジブリ側も宣伝をする際、そういう憶測さえ許容範囲であったことも考えられるが…。

まあ、日本版予告のお粗末さをいまさら取り上げても仕方がない。

単に汲み取る能力のある人が職についていないのか、致し方なく商売のためにやっていることなのか定かではないが…。

まあ、予告のレベルが低いおかげで劇場に足を運んでいる、という側面もなくはないので結果オーライとしよう。

そんな憶測が飛び交っていた『思い出のマーニー』だったが、最初に断っておくとレズビアン映画ではない。

 

冒頭三分で「私は、私が嫌い。」と胸の内でほのめかすジブリヒロインが、かつてあっただろうか。

そういう意味では、始まりからしてこの作品は、ほかのジブリ作品とは一線を画す作品ではあるなあと当時思ったことを思い出した。

劇場でこの作品を初めて見たとき、鑑賞し終えたときの感想は、「きょとん」としていたというのが正直なところだ。

それはなぜか。

今よりも穿った見方の全盛期だった私は、マーニーと出会う以前に繰り広げられる些細なシーンに気を取られ、あらぬ妄想をしていたからであった。

たとえば。

親戚のオバチャンが料理をよそう、このシーンである。

取り落としたトマトを、空中でキャッチする、だと…?

雑談をしながら皿にバランスよく箸で料理を盛りつけていくオバチャン。

その過程でトマトを取り落としそうになるも、なんなく空中でキャッチ

「いったい、このおばさん、なにものなんだ……」

ちなみにこのシーンで喋っていたことと杏奈の態度への注意も散漫になっていたため、会話が頭に入ってきていなかった。(当時、内心そのことにムカついていた)

現に今回見たときもオバチャンのファインプレーに気を取られ、二度三度巻き戻して内容を確認することとなった。否、内容そっちのけで、オバチャンのファインプレー見たさに巻き戻したといっても過言ではないだろう。

 

たとえば。

杏奈が「太っちょ豚」から逃げるようにして海べりへと続く階段を降りていく、このシーン。

一回転半である。

原っぱで転んだのなら、百歩譲って軽傷でよかったとしよう。

しかし見たところ、木と土で舗装された階段である。

複雑骨折、あるいは脳挫傷の重症を負っていてもおかしくはない。

…そういえば、このでんぐり返り以降、湿っ地屋敷やマーニーといった怪しげなる者たちと出会うようになるので、もしかすると、彼女はこの時点で頭のどこかがおかしくなり、見えるはずのないものが見えるようになってしまった、という憶測も成り立つのではないか…。

 

成り立たない。

 

そんなお話ではない。

念のため述べておくが、決して私はこの作品をディスっているわけではない。

むしろリスペクトしている。でなければ、こんなに懸命に記事にするわけ、ないじゃないすか。

それは冗談ではなく、本当のことだ。

 

ではこの作品のどこにリスペクトを覚える要素があったのか、というと、一番はストーリーの構成だ。

私は今回の視聴で脱帽した。原作と監督と脚本と『思い出のマーニー』に携わったすべての人たちに。

 

頭でっかち人間である私は映画を見るとき、その伏線を探ったり、勝手な憶測、妄想の類をフル稼働させて物語に挑む。

この作品は、何を残したいのか、なにを伝えようとしているのか

ある時は登場人物の誰かに感情移入してみたり、またあるときはリアリティの面から窺ってみたり、さらにあるときは神様になったような俯瞰した視点で物語を眺めてみたり。

たったひとつのシーン、言葉、動き、モノ、カタチ。

作品の細部にこそ、「何を語って、何を語らないのか」が宿っていると思っている。

 

それが今回は自分にとって、まったくの盲点だった。

それはすぐそこに、何度も何度も登場していたにも係わらず、見逃していたのだ。

それは色彩、杏奈の眼の色であった。

見ることと認識することの違い。

真実は細部に宿ると知ってはいても、見落としてしまう。人の性。

 

しかも監督は杏奈の幼少期のシーンで、マーニーに似た西洋人形を抱きかかえさせていたり、杏奈の夢と現の往来を繰り返し見せつけることによって、疑り深い鑑賞者を、「これは杏奈が一人でに作り上げた逃避するための幻想の物語、空想の友達なのではないか」と結論づけさせる。

杏奈自身、「マーニーは私が作り上げた幻なんだよ…」とも物語の途中で言い放つ。

 

しかし、それらが間違いだったことを鑑賞者は杏奈とともに追体験していく。

後半15分足らずで明かされていく怒涛のネタバレラッシュ。回収されていく伏線。

私が結論付けた空想論は一気に置き去りにされ、現実へと引き戻される。

これは、一人ぼっちの少女が、孤独な大人へと成長していく物語などではなかった。

これ以上ないほどの救済を伴う、感動的なお話であった。