安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』月給五万円、日本国家が黙認してきた使い捨て労働の実態

日本人は優しいと言われる。

だが、それは、どうなんだろうか。

「日本人は優しい」

その言葉に疑いを持たないのは、当の日本人、だけのような気がする。

それはもちろん、私が日本に住んでいて、日本語しか話せないから当たり前かもしれない。

だが、人づてに聞いた話でも、最近は「日本礼賛」のTV番組をよく目にするという。

「世界が注目する日本人のいいところ」などと、誰に気を遣っているのか、そんなおべんちゃらまで聞こえてくるそうだ。

本当に日本人は、世界に誇れる「いい人たち」なのだろうか。

 

『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』で描かれるのは、それが一概にイエスといえない現実だ。

 

「海外の人に聞いた日本人像」そうした番組が作られるのは、「日本人の評価は、海外でも高い」そう思わせておきたいメディア側の意向がちらついてならない。

本質から目を逸らさせるため、「日本人は(日本の技術は)、やっぱりすごい!」と思わせて、問題と向き合う機会を奪う。

なぜ、そんなことをするのか。

それは、優待顧客であるスポンサー様の後ろ暗い部分を、日本人には決して見せないためだ。

 

「いい人」である日本人にとって、その現実はあまりにもショッキングで、大企業のブランド力など、地に落ちてしまいかねない外国人労働者に対する仕打ち。

一年以上着ることのできる品質のいいその服が、なぜそれほど安く買えてしまうのか。

食卓に並ぶ料理のなかに、まさか中国人労働者が流した涙が混在していることなど、知りもしないし、ましてや、日系ブラジル人が、真剣に丁寧に汗水流して作り上げた「メイドインジャパン」の車に乗っていることなど、知りもしないし、知りたくもないだろう。

 

だが、どう言い逃れをしようと、私たちは農業・畜産・縫製・工業・その他のあらゆる分野において、外国人労働者の力を借りずして、今日の発展と繁栄はなかったのだ。

それだけではない。2008年のリーマンショックの煽りを受けた数多くの日本企業は、不況で潰れる一歩手前の、首の皮一枚をつなぐ代わりに、日本人のみならず、外国人労働者のクビを切った。それはあらかじめ、用意されていたカードでもあった。

 

外国人労働者の汗と涙、そして目には見えないけれど、数多くの血が流されている。その事実を知らないまま、私たちは生産された商品を、買い求め、享受しているのだ。

 

「だから何が言いたいんだ」

きっと多くの人は、そういうだろう。

いつだってそうだ。

「世の中はそういうもの」「建前だけじゃ、社会は回らないんだよ」と。

とくに、社会的に成熟した、成人男性がそう思うのも無理はない。

 

私が伝えたいのは、それを「知る権利」がない、現状ってどうなのよ、ということだ。

この歳まで生きてきて、こんな重要な、社会の根幹に関わることを、まったく知りもしなかった。

もちろん、自分が不勉強なだけで、知っている人は意外にいるのかもしれない。

だが、私のように、知らないだけ、の人もきっと一定数いるはずだ。

少しでも多くの人が、この現実を知っているだけで、多少は世の中にいい影響をもたらすことができたんじゃないのか、救えた人たちがいたのではないか、と思うのだ。

 

「日本人は優しい」

これがまったくの嘘だとは、私も思わない。

単純に知らないだけで、きっとこの事実を知れば、「これはあまりにも非人道的だ」と思える人のほうが多いだろう。

本当の意味で、「労働力を駒のように考えている人間」は、ほんの一部なのだと思う。

圧倒的に多くの人は、呵責を感じながらも、鈍感になることで、致し方なくその問題と向き合ってこなかっただけだ。

 

だからこそ、多くの人が、この現状を認識する。

まずはその一歩からだと思う。

 

 


 

今回、本書を読み進めるにあたって、『差別』というキーワードについても、あらためて考える契機となった。

昨今では、ネトウヨと呼ばれるような「過剰な差別意識」を持った人たちや、女性軽視・差別問題が、女性たちが声を上げたことで、世の中に認知されるようになってきた。

 

たしかに差別をする彼らほど、息をするように差別はしないけれども、自分自身の胸に手を当て、自問すると、ほんの小さな、差別感情を自分が抱えていることも、完全には否定できない、と思った。

移民が、外国人が、日本の土地に増えてきた、ということに対して、なんとなく嫌悪感を抱くものも多い。

実をいうと、私にもその気持ちがある。正しくは、「あった」と言うべきなのか。

それにしてもなぜ、自分がそう感じてしまうのか。

そうした感情の発露する部分を、わからないなりにも辿ってみると、ひとつの結論にたどり着いた。

それは外国人がどうこう、というより、「わからないもの」に対する想像力の欠如、無関心、あるいは恐怖心、ではないだろうか。

『差別』と認識できるほど、露骨な態度である必要はない。本当に、小さな小さな暴力、あるいは恐れ。

 

日本という国、社会で生きていくために、潜在的に所有することになってしまった差別意識のようなもの。これはときに、選民意識と言い換えてもいいかもしれない。

内輪の人間(面が割れている人間)には優しくすることができるが、異国の(想像が及ばない)人間に対しての「対等な意識」というものが稀薄であるような気がするのだ。

 

もちろん、異文化交流を行う機会のある人にしてみれば、このことは当てはまらないだろう。

なにも、「変えられない価値観」ではないからだ。

それはおそらく、民族としての村意識に相反するように、培われたものなのだろう。

私のなかにも、無意識的にある種の、「差別」を黙認している自分がどこかにいる。

それは本書を読み終えたいまでも変わらない。

 

次に読む本の方向性が見えてきた気がする。

しばらく、自分のなかの差別と向き合うことにする。