【生きる意味がわからない】人生の絶望を味わったフランクル『夜と霧』が教えてくれる本当の生きる意味

早くも今年も二か月が経ち、三月に突入した。

二月中頃から世間はコロナ騒動で持ち切りで、そろそろ肉体的にも精神的にも疲弊してきている人も多いのではないだろうか。

私もその一人かもしれない。

この感覚は311のときと似ている。世の中に突発的なパニック状態が数週間続き、時間が経過するにつれ、精神的に参ってくる。そして肉体的にも疲労感が生じてくる。

まあいつの時代を切り取っても、こうした出来事は発生し、そのたびに騒動になったり、群衆の愚かさを嘆いたり、そんな集団の一部に過ぎない自分に虚しさを憶えたりしてきたのだろう。

いずれにせよ私たちとて、そのようないつしか過去の遺物となる「歴史」の中を生きているのであって、そうした激動に見えて実は普遍的である「時代」に翻弄されず、今を生き抜くためにも、「個」としての強さを常日頃から磨いておきたいものだ。

コロナ騒動が起きる前から、世の中は歪だったのだ。

それがひとたび何かの事情によって混乱が生じると、その衝撃で化けの皮が剝がれるというだけの話。

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(本題)

そんなわけで、あらかじめ絶望を知っておくことは、むしろそのような状況に陥った時に冷静で居られたり対処できたりする可能性を秘めている知識かもしれない。

そこで今回おすすめしたいのがこのヴィクトール・E・フランクルの書いた『夜と霧』という作品だ。

本作は、実体験に基づくノンフィクションの伝記だ。

ユダヤ人であり精神科医でもあった彼が、ある日突然「ユダヤ人である」という理由で連行され、アウシュビッツなどの強制収容所で経験した凄惨な体験から奇跡的にも生還し、できるだけ主観を排し客観的な論考に基づいて記された強制収容所での日々の記録である。

といっても、内容はさほど難解ではなく(もちろんテーマは重たくはあるが)、新訳のおかげもあってか、非常に読みやすい文体となっている。

一度の通読では、その本質的な意味が深いところまで掴みかねる表現も多々あった。

だがそれは単純に私の人生経験の浅さ、想像力の欠如もあることだろう。

しかしそんな私であっても、本書が与えてくれたものは大きかった。

感想

私が読書をする理由、選書するひとつの基準は、「人間とは一体何なのか」という疑問を少しでも解消してくれる本だ。

そうした基準でこれまで200冊ほど本に手を出してきた。だが、「人間」という存在を、ここまで浮き彫りに、しかも論理的に、具体性を伴って解明してくれた本は初めて読んだと言える。

痛みや飢え、死への恐怖を前にすれば、個々人の人間の本性というものがあぶり出されるのだろう。

 

なによりも心に残った一行を、ここに抜粋したい。

被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

前後の文脈なしにこの文章を読解するのは難しいだろう。

その真意は、本書をお読みいただき、読者それぞれが感じ取ってほしい。

私はこの一文に救われた思いがした。生きようと思った。気高く生きていたいと思った。

抜粋した箇所は、私が感銘を受けた部分であって、人それぞれに感じ入る部分は違うと思う。それだけ名言が多い作品ともいえる。

 

厚みもそれほどないので、1~2週間もあれば読了できるだろう。

「人間」や「人の心」を知りたい人、「生きる意味」について悩んでいる人にとって、本書はおすすめできると思う。

 

ヴィクトール・E・フランクル (著), 池田香代子 (翻訳)