リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』白黒つかないグレーな世界に色彩を 理論武装ではなく行動という花束を

「何かおすすめの本、ありますか?」

私はバタフライエフェクト(以下:バタエフェさん)の店主さんにそう尋ねると、この本をお勧めしてくださった。

あれはいつだったか、私がツイッターである呟きをしていたところに、突如として面識もなくリプライをくれたのがバタエフェさん(個人書店の店主さん)だった。

そこから幾度かツイッター上ではあるけれども、やりとりをして、長崎に構える素敵なお店に行くつもりだった。だが、緊急事態宣言の発令により、それはお預けとなった。

なによりツイッターやフェイスブックから流れてくるお店が仕入れた本の情報が、本当に個性的で、私のような捻くれ者の興味をそそってくるタイトルばかりなのだ。

通販もやっているということだったので、私は買おうと思っていた一冊と、もう一冊は我儘を言って、「私におすすめの一冊」をチョイスしていただいた。

 

その選んでいただいた一冊がこちらのリュドミラ・ウリツカヤ著『陽気なお葬式』だ。

リュドミラ・ウリツカヤといえば『ソーネチカ』で知られる、現代のロシアを代表する作家のひとりだ。(そうだ)

あらすじ

自分の葬儀が、絶望と悲しみに染まることのないように。そして、愛で満たされるように――。舞台は1991年夏、猛暑のニューヨーク。亡命ロシア人で画家のアーリクの病床に集まる五人の女たち、友人たち。ウォッカを飲み祖国のクーデターの様子をテレビで観ながら決して平坦では なかった人生を追想する。そして、皆に渡されたアーリクの最期の贈り物が、生きることに疲れた皆の虚無感を埋めていく……。不思議な祝祭感と幸福感に包まれる中篇小説。

引用:「BOOK」データベースより

読み終えてみて

バタエフェさんにその真意はまだ尋ねていないのだが、私はこの本を薦められた理由がなんとなくわかった気がした。

孤独な人間は、その爪を研ぐことにかけては誰の助けを借りずとも、自ら探し求めることができる。一匹狼は鼻が利くのだ。

バタエフェさんに「選書して」と頼んだときにも、私はその孤独というカテゴリーから選んでくれるものと思っていた。私がそれらをこよなく愛していることを知っていたはずだから。(なにせ私はツイッター上であまりにも思ったことを赤裸々に書くので、その性格がバレやすいというのはあるのだろう)

なので本当のことをいうと、あのときは内心で「えっ」という思いがした。

それでも、私の性格をある程度加味した上で薦めてくれたのであれば、そこになにかしらの意図があるのだろうという期待と不安の入り混じった気持ちで本書を購入した。

正直な感想

結論からいうと、今現在の頑なな私の頭ではこの作品を許容するだけの心の広さと読解力が足りなかった。

結局は、男女関係なくモテた、ある種の天才肌が、穏やかに、禍根を残すことなく、皆の心に刻まれ悼まれながら死んでいったという、幸福な男のおとぎ話じみた都合のいい物語ではないか、と。

私のような孤独な人間とは真逆の、生涯、そして死してなお誰かに愛される存在。己の惨めさに否応なく向き合わされた。(ただ、面白いのは『ソーネチカ』では、これとは真逆の、誰にも愛されず悲惨な人生を歩んだ一人の女性が見い出した世界の美しさ、といった類の物語が描かれているようで、そちらも気になる)

 

今現在の自分にとっての感想はこのようなものだったが、一方でこれは年輪を経て、節目節目に読み返すたびにその感じ方は変わっていく類の本かもしれない、と思わせるなにかがあった。

物語に登場する主人公アーリクを、アメリカで看取るフィーマという医者が一人思惟する場面がある。

この国は苦痛を嫌悪していた。苦痛の存在を根本的に否定し、存在していたとしてもそれは可及的速やかに撲滅すべきものとしてしか認識しなかった。(中略)彼らはどんな対価を払っても苦痛を取り除くことを目的としていた。

ロシアから来たフィーマの頭にはこの思想はなかなか馴染まなかった。彼を育ててくれた土地では、苦痛を好み、高く評価し、糧にすらしていた。

苦しみがあって初めて人は育ち、大人になり、賢くなるのだと。

しかし、そうした考え方に固執することなく、フィーマはアーリクの苦しむ姿を見たくない、と一刻も早く痛みを取り去ってやろうと取り計らう。そこに思想はもはや介在していない。

まあこれは、「訳者あとがき」から気付かされた部分なのだが…。

 

私自身からは読み取れなかったことなのだが、本書はあとがきの最後の項目を読むだけでも、相当の価値がある。

その一部を、私個人の備忘録としてここに引用しよう。

寛容―この言葉を軽んじている人がどれくらいいるだろう。寛容を軽んじた先には「無理解」があり、無理解の極限に個人の、国家の、権威的なものすべてによる「暴力」があるのだ(中略)

「解決策を示さないのか」あるインタビューで(文学者がこれまで常に言われてきたように)そう言われたとき、ウリツカヤは応えた―

問題を語ること、考えること、共有すること、それは既に、ひとつの行為なのだ。際限のない無理解と暴力に拮抗するひとつの「行為」なのだと。

この言葉に背中を押された。

「対案を出せ」「他に考えがあるのか」こうした台詞はなにか正論のように響き、「考えが固まっていないのなら口を出すな」と言わんばかりの圧力がある。そしていつも、その言葉に違和感を覚えながらも引き下がるしかなかった。

だが、言い淀む言葉、はっきりとは説明できないけれど皮膚感覚でおかしいと感じていることに対して発言することは、ウリツカヤの言葉を借りれば、ひとつの「行為」なのだ。

 

誰かが「死にたい」と言い、それをあなたが必死に止めようとしたとき「なぜ死んではいけないのか」と問われたら、あなたは死のうとする彼・彼女が納得できるだけの答えを咄嗟に思いつけるだろうか。

「なぜ死んではいけないのか」

本当はなぜ自分がそれを止めようとしたのかさえ、正直よくわからないのではないだろうか。

 

世の中にはこのように白黒はっきりつかない事柄で溢れている。

答えられないからと言って、そのことに価値がないことにはならないのだ。

あなたが、目の前で死のうとした人を止めようと声を上げたのと同じように。

 

リュドミラ・ウリツカヤ (著), 奈倉 有里 (翻訳)