大嶋信頼『「自己肯定感」が低いあなたが、すぐ変わる方法』を読んだ感想と、僕が経験的に身に付けた自己肯定感を高める4つの方法

自己肯定感について語った書物はゴマンとある。

あまりにもこの言葉が有名すぎて、

「ああ、みんなもやっぱり同じように自己肯定感が低いんだね」

と思うこともしばしば。

 

の、わりには周辺に自己肯定感が低そうな人間は見当たらない。

 

これは一体どういうことか。

 


 

前に心理学系の専門書を読んだときに、

「人間には優劣の錯覚があり、自分は他人より優れているといった思い込みがある」

と書いてあるのを見て、「たしかにあるよね~」と疑いもなく思っていた。

 

しかしこの同意が、誤ったものであるということに、最近になって気付きはじめた。

 

「あらゆる部分については劣っている、だけど、なにか自分にはあるはず、変われるはず」

という感覚は、決して優劣の錯覚ではない

 

たしかにあると思っていたそれは、

一般的な優劣の錯覚ではなかったのだと確信した。

 

「ほぼあらゆる面において、自分は他人よりイイ感じだ」

そう思っている、まさにこれこそが優劣の錯覚なのだ。(自覚の有無は個人差あれど)

 

そう考えたときに、

おれには優劣の錯覚がないということを痛感した。

 

 

これがないとどうなるのか。

自己肯定感は常に低いまま、というだけでなく、

他人からも攻撃されやすいという特徴を持った人間の一丁上がり、である。

 

いまもまだ、自己肯定感を高くするために努力している最中だが、昔はほんとに酷かった。

どうしてあそこまで自分を貶めていたのか、今となっては不思議だ。

 

 

今回の記事は、書籍の内容について書く、というよりも

本の内容に触発されて思い出された、自分がこれまで自己肯定感を上げるために自動的にやってたことを書いてみたい。

 

これまで現実でもネットでも、その方法は公言してこなかった。というのも、

これらの自論を公言するのは勇気のいることだし、どれも世間的には歓迎されないであろうことを知っていたからだ。

 

大嶋先生の本が好きな人ならわかるだろうが、

真実や本質といったものはときに、意識や現実を超越することがある。

 

一見タブーと思われているやり方見方にこそ、活路を見出す手段が隠れていたりする。

 

大嶋先生の本を読んでいると、

科学的に正しいかどうかや、成功者や偉い人は誰もそんなことを言っていないから間違っているはずといった

「意識的な判断」を解きほぐしてくれる

 

とことん自己肯定感が低い」と感じている人にしかわからない・伝わらない世界だってあるはずなのだ。

 

少しだけ本の紹介

今回の本は、暗示よりも自己肯定感を高めるための具体的な方法がたくさん書かれているので、とても参考になる。

 

一般的に言われているような食事、運動、清掃などの生活習慣のなかで行える方法に加えて、

職場での言動の際に気を付けること、などの具体的な対応についても言及されている。

どちらかというと、暗示よりもこうした具体的な方法のほうが結果に直結するので僕は好きだ。笑

 

なかでも僕が強く印象に残って実践しはじめたのは、鏡を使って全身を見るというワークだ。

これは、頭の中ではっきりと自己イメージをいつでもしっかり描けるようになることで、自己肯定感を高めるのが狙いのようだ。

入浴前に素っ裸になって、じっと目を見て、それから体全体と細部を1~2分かけて見ているが、

ヨガなどの瞑想をしているときの感覚に近い。

どんなに現代が慌ただしい世の中であっても、一日1~2分だけでもこういう時間を持つことは忘れたくないなと思う。

 

過去は習慣で変えられる

大嶋先生も述べていたが、

人の記憶って、みんなが思っているほどあんまり覚えてない。単純なんだよ」と。

 

「急に態度が変わったら、それに気付かれて攻撃されるんじゃないか」というのは心配に及ばないという。

人はそれほど覚えていない。これは実体験としてもひしひしと感じている。

 

最初はたしかに、相手に「おや?」と思われるかもしれない。

しかしいずれそれが習慣化することで、「おや?」と思ったことすら忘れて、

それがその人の普通の姿だったと思うように記憶が上書きされるようだ。

 

どうやら、多くの人間が参照しているのは「過去」ではなく「習慣」のほうらしい。

 

 

昔、職場で自分にだけ挨拶を返してくれないおっさんがいた。

明らかに自分がなめられているな、という体験を何度か受け、

「自分のなにが気にくわないんだろう」「なにか悪いことしたかな?」と思い悩んでいた時期があった。

 

しかし、いつしか「そういうタイプの人ね~」と歯牙にもかけず思うようにしたことで、

自動的にその人とすれ違ってもこちらも挨拶しないようになっていた。(ある意味対等な関係を築いている)

 

いまにして思えば、あの頃の

「そういうタイプの人ね~」は感覚的にいうと、「嫉妬の発作ね~」という感じだったのだろう。

 

それからしばらく経ったある日、トイレ付近ですれ違ったとき、向こうから頭を下げてくるではないか!

自然な流れでこちらも軽く会釈してそのまますれ違い、「無意識さんの力ってすごい!」と放尿しながら思ったものだ。

 

 

過去を習慣で変えられるのは他人だけではない。

自分の認識だって変えられてしまうから本当に面白い。

 

なぜならそんな出来事があるまで、「自分が挨拶を気にしていたこと」さえ忘れていたからだ。

 

「ありがとう」の回数を減らしてみる

会話の中でよく「ありがとうございます」とお礼を連発する人がいるが、あれはいけない。

「お礼のどこが悪い?」というのが世間一般の常識でしょう。

 

よく本なんかでも、感謝の言葉を述べましょうだとか

「『ありがとう』は人を動かす」などと嘯いているが、

 

あれには忘れてはならない注釈がある。

それは「用法・用量を守って正しくお使いください」ということだ。

 

傍で教えを乞うてもらったあとなどに「ありがとう」を連発する人の話を聞いていると、

ありがとうの叩き売りかよ」と思えてくる。

 

お礼ばかりを軽々しく口にすると、

その人の「ありがとうの価値」はどんどん低くなってしまう。(というかもはや謝罪に聞こえる)

 

98円のサバ缶100個と、一万円のギフト券を贈られるとしたら、あなたはどちらが嬉しいだろうか。

 

これは嫉妬の発作にも共通する部分だと思う。

 

自分もけっこう油断していると、妙にへりくだってしまうときがいまだにあって、

一度の会話で「ありがとうございます」を三度ほど言ってしまうことがある。

(自分的には三度でも多いほうだと思っている。時と場合にもよるが)

 

なので、気が付いたら引っ込めたりしているが、

やはり「ありがとう」の数を減らすだけで稀少性が増すのか、言われた相手の表情もどこか柔らかい気がする。

 

人のせいにしてみよう

普通の人が聞いたら「は?」と言われそうだが、

自己肯定感が低い人は、ほとんどの事象を自分に帰属しがち。

だからこれくらいオーバーでいいのだ。

 

ちょっと不機嫌そうな人が近くにいるだけでも「自分がなにかしたかな」と不安になってしまう。

考えているうちに、段々とその人に対する怒りが湧いてくる。

脳はストレスを感じているのに、直接その怒りを相手にぶつけられないから、

変なかたちで表出し、結果的にその人との空気が悪くなったり、自分から苦手意識が湧いたりして苦しくなる。

 

これの対処法として、周りで起こっていることのすべてを、

それは、その人のせい(問題)」と、個々人に帰属するようにすることだ。

 

これは表現の問題だが、僕の場合、

相手の不機嫌が「自分のせいではない」と言われてもピンとこなかった。

 

だから最初くらいオーバーな発想でもいいのかな、と思った次第である。

 

 

変な話、そうして大胆な発想や、

ちょっと過去の自分には考えられなかった大胆な行動ができたりすると、

心のなかで小躍りしたくなる

 

これを書いてしまうと嫌われそうだが臆せず書くと、

いつも混雑した電車のなかで、リュックサックを平然と背中にしょっている人。

 

見るたびに心がざわつく。

 

そこでふと、ちょっとその人の真似をしてみたくなって

 

いつもなら配慮して(小さめではあるが)カバンを前に持ってきて、

人の邪魔にならないよう気を使っているわけだが、

 

ちょっといつもと違うことしてみよう、と

 

その「リュックを背負ってても無神経な人」を演じてみたのだ。

するとどうでしょう。なんだこの快感は

目的地に着くまで余計なことを考えずに、ぼーっとすることができたのだ。

 

しかも以後、おかげで(?)あまりそういう人を見ても気にならなくなった。

「配慮してもいいし、しない自由だってある」ということをただ認識するだけで、

心境が変わったのかもしれない。

 

わかっていると思うが、相手の気分をあまりにも害するようなことはもちろんしてはいけない。

いや、それも自由だ!!(嫌われたらしらん)

 

飲み会後に死にたくなることは誰にでもある

みなさんは飲み会が好きだろうか?

僕はどちらかというと嫌いだ。

そりゃ話して楽しかったり、自分の興味ある分野のことについて徹底的におしゃべりできるのなら

参加したいと思うかもしれないが。

凡人との会話に興味が持てないのは別に悪いことではないだろう。

「コミュニケーションをとれ」などといって煽る連中は、

自分の狭い了見に気付かぬまま、棺桶に入るのがオチなので無視でいい。

 

とはいえ、避けられない飲み会があるのも現実。

かつての僕は飲み会が終わったあと、

うまく話せなかった」「周りに溶け込めなかった」と思い悩み、死にたくなることがよくあった。

「周りはあんなに楽しそうなのに、空気を壊しているようで申し訳ない」
「本当は一緒になってはしゃぎたい」あるいは「こんな飲み会なんか本当は来たくなかった」などなど。

無理に笑顔を作ったせいか、余計にその反動は大きい。

だけどその悩みは杞憂であった。

 

人間には恒常性というありがたい機能があり、
それはつねにテンションを一定に保とうと働く。

ハイになれば、真ん中に戻るためにローになる。

ローになれば、真ん中に戻るために少しずつハイになる。

これが人間なのだ。

あんなに楽しそうにしていた人たちでさえ、帰路、一人で夜道を歩く段になって、

「きっとどこかもの寂しい気持ちを味わっているんだろうな、ふふふ」と考えることで、

飲み会がさほど苦痛ではなくなった。

 

しかもわりと存在が消えてるなりに、場に馴染めてたりする。(一体感を感じられる)

それもこれも、「どうせみんなこのあと自己反省会するんだろうなあ」という結果を知っているから。

そう思うと、「みんな、乗り越えようね」みたいな悟った感覚になるのである。